第11話:祈りは届かず
「魔神顕装……!」
黒刃が生成される。
悪魔の腕は、以前よりも強度と鋭さが増していた。
ロザーリエは避難所の入口へ向かって駆け出そうとする。
その腕を、シオンがそっと掴んだ。
「ロザーリエちゃん」
振り返ると、シオンは心配そうに微笑んでいた。
「無茶だけはしないでね」
その言葉に、ロザーリエは小さく頷く。
「ええ。 ですが、そのためにもお二人は避難所の中へ」
シオンが何かを言おうとした瞬間。
玲司が一歩前へ出た。
「俺は子どもたちを避難させる」
その瞳には迷いがない。
「この前、一緒に遊んだ時に見つけた洞窟がある。 隣町に出れるうえに、森の中を通れば敵からも見つかりにくい」
ロザーリエは静かに頷く。
「あの兄妹たちも」
「もちろん」
玲司は短く答えた。
「全員連れて行く」
「お願いしますわ」
玲司はロザーリエを真っ直ぐ見つめる。
「お前も必ず戻ってこい」
その一言に、ロザーリエは少しだけ目を見開いた。
必ず戻る。
そんな約束を交わしたのは、父と母以来だった。
「……ええ」
自然と口元が緩む。
「約束しますわ」
玲司は小さく頷くと、避難所の中へ駆け出した。
子どもたちを呼ぶ声が次々と響く。
「みんな、落ち着いて! 俺についてきて!」
泣き出す子。
状況が分からず立ち尽くす子。
玲司は一人ひとりへ声を掛けながら、奥へ走っていく。
ロザーリエは再びシオンへ視線を向けた。
「シオン」
「何?」
「今日は、どうか休んでいてくださいまし」
シオンは少し困ったように笑う。
「そうしたいんだけどね」
その笑顔は、どこか力がなかった。
「……分かったわ。 あなたを信じる」
ロザーリエは静かに一礼する。
そして踵を返した。
避難所の出口を押す。
冷たい風が頬を撫でた。
雲の向こうから、空気を切り裂く轟音が近付いてくる。
ロザーリエの黒刃が不気味に煌めいた。
守るべきものはある。
二度と失わない。
ロザーリエは避難所から距離を取るように、広場の向こうへ駆け出した。
――イシュの話が本当ならば、奴らの狙いは私だ。
だからこそ、避難所へ近付けるわけにはいかない。
十分な距離を取ったところで足を止め、静かに空を見上げた。
その視線の先。
渦を巻くように集まった大量の宇宙外生命体が、一直線に降下してくる。
「虚界穿孔」
黒刃へ虚空が絡み付く。
刃の周囲を覆った漆黒の裂け目は轟音を上げながら回転を始め、その存在そのものが巨大な渦へと変貌していく。
ロザーリエは静かに息を吸った。
あれを倒したところで、父様も母様も戻ってはこない。
それでも、今ここで守れる命はある。
ならば――立ち止まる理由はなかった。
「虚界螺旋……!」
悪魔の腕を天へ掲げる。
次の瞬間、黒刃を包んでいた虚空が螺旋となって天へ駆け上がった。
空そのものを穿つように伸びた漆黒の奔流は、魔神顕装によって増幅された力を纏い、宇宙外生命体の群れを一瞬で飲み込む。
渦の中へ引き裂かれた宇宙外生命体は、悲鳴を上げる暇すらなく、その存在ごと虚無へ消えていった。
「……っ!」
突如として、全身に激痛が走る。
右腕から黒い亀裂が肩、胸元へと広がっていく。
皮膚が砕けるような感覚に、思わず膝をついた。
「これは……!」
『力を酷使しすぎた』
「代償……ですのね」
ロザーリエは息を荒げる。
視界が揺れる。
まだ空には宇宙外生命体が残っている。
立たなければ。
戦わなければ。
しかし、体が動かない。
「……ハイドラ」
『何だ、ロザーリエ』
「この傷を癒やす術はありませんの?」
少しだけ沈黙が流れる。
やがてハイドラは静かに答えた。
『ある』
ロザーリエは顔を上げる。
『奪えばよい』
「……奪う?」
『生命を』
その一言と共に、頭の中へ新たな知識が流れ込む。
赤黒い濁流、青黒い炎。
相反する二つの力。
それらが絡み合い、一つの奔流となる。
「……!」
ロザーリエはゆっくりと悪魔の腕を持ち上げる。
黒刃の周囲へ赤黒い水が溢れ出す。
その表面を青黒い炎が静かに燃え始めた。
水でありながら熱を持ち、炎でありながら凍てつく。
理を拒絶する景色だった。
向かってくる宇宙外生命体が一斉に迫る。
「深淵灼流」
悪魔の腕を振るう。
赤黒い奔流が空を駆けた。
青黒い炎はその上を蛇のように這い、敵を包み込む。
凍結。
灼熱。
相反する二つの現象が同時に襲い掛かる。
宇宙外生命体の身体は悲鳴を上げる暇もなく崩壊していった。
その瞬間、赤黒い光が幾筋もロザーリエの体へ流れ込む。
黒い亀裂が少しずつ閉じていく。
裂けた皮膚が修復される。
痛みが引いていく。
「生命を……奪っている……」
ロザーリエは自身の手を見つめた。
傷は癒えた。
だがその代償は、自らが敵の命を糧としたという事実だった。
『死とは終わりではない』
ハイドラの声が響く。
『命は巡る。 それもまた、一つの理だ』
ロザーリエはこの状況を拒絶したかった。
しかし、そんな考えもすぐに塗りつぶされた。
空を見上げると、黒い雲を押し退けるように、巨大な宇宙外生命体が姿を現した。
あまりにも巨大だった。
避難所も、森も、大地さえも。
その影に覆われていく。
「こんなものまで……」
ロザーリエは思わず息を呑んだ。
倒しても、倒さなくとも、この巨体が落下すれば避難所を含めた周囲はひとたまりもない。
『ロザーリエ』
ハイドラが静かに告げる。
『一点に集めろ』
「……一点?」
『虚空は広げるものではない。 極限まで圧縮するものだ』
その瞬間、ロザーリエはゆっくりと右手を持ち上げていた。
人差し指を巨大な宇宙外生命体へ向ける。
そこへ黒い粒子が集まり始める。
初めは砂粒ほど。
やがて小石ほど。
さらに圧縮され、最後には親指ほどの漆黒の球となった。
小さい。
だが、その周囲だけ空間が静かに歪み始める。
風が吸い込まれ、音が消える。
光さえ揺らぐ。
世界そのものが、その一点へ沈み込んでいくようだった。
ロザーリエは静かに呟く。
「――虚界収束」
球体が放たれる。
音はない。
尾も引かない。
まるで世界から切り離されたかのように、それは巨大な宇宙外生命体へ触れた。
その瞬間、黒い球体が静かに開く。
否、空間そのものが折り畳まれ始めた。
巨体を包む虚空は膨張することなく、内側へ、さらに内側へと収束していく。
山脈のような肉体が軋み。
空を覆っていた外殻が折れ。
悲鳴すら圧縮され、音にならない。
抵抗も、質量も、存在そのものも。
すべてが一点へ押し込まれていく。
やがて巨大な宇宙外生命体は、人の拳ほどの大きさまで縮小した。
そして、最後の一点となった瞬間。
音もなく、この世界から消滅した。
空には雲だけが残る。
ロザーリエはゆっくりと腕を下ろす。
向かってくる宇宙外生命体はもういないようだ。
風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが耳に届く。
その静けさに、ロザーリエは僅かに安堵した。
「……間に合いましたわ」
息を整えながら歩みを進める。
避難所まで、あと少し。
シオンは無事でいてくれるはずだ。
そう信じていた。
だが、避難所が見え始めた、その時だった。
「……?」
何かがおかしい。
嫌な予感が胸を締め付ける。
ロザーリエは痛む身体を押して駆け出した。
避難所の入口を抜ける。
「シオン!」
返事はない。
「シオン!」
荒い呼吸のまま建物の中を見渡す。
人の姿はない。
――玲司のおかげで、避難は成功したようだ。
その事実に胸を撫で下ろしかけた、その瞬間。
奥の部屋から、小さく物音がした。
何かが倒れる音。
ロザーリエはゆっくりと歩み寄る。
扉は半開きになっていた。
「シオン……?」
そっと扉を押し開ける。
そこには、壁にもたれ掛かるように座り込むシオンの姿があった。
「……良かった」
ロザーリエは安堵の息を漏らす。
しかし、その笑顔はすぐに消えた。
シオンの肩が、小さく震えている。
苦しそうに息を繰り返し、その右腕には黒い筋が血管のように浮かび上がっていた。
指先はゆっくりと人の形を失い始めている。
「そんな……」
ロザーリエの顔から血の気が引く。
「シオン……!」
駆け寄り、その肩へ触れようとする。
だが。
『触れるな』
頭の中へ、ハイドラの低い声が響いた。
ロザーリエの動きが止まる。
『融合が始まっている。 もう後戻りはできぬ』
「違いますわ……!」
ロザーリエは首を振る。
「まだ意識があります! だから――」
その時、シオンがゆっくりと顔を上げる。
苦しげな呼吸の中、それでも彼女は微笑んだ。
「……ロザーリエ、ちゃん」
その声だけは。
まだ、いつものシオンだった。
呼吸をする度に、その胸が苦しげに上下する。
右腕を覆っていた黒い侵食は、肩を越え、首元へと広がっていた。
人ではない何かへと、ゆっくり変わっていく。
「待っていてくださいまし」
ロザーリエは震える声で言う。
「今なら、まだ……」
「違うの」
シオンは静かに首を横へ振った。
その一言だけで、ロザーリエは言葉を失った。
シオンは自分の腕を見る。
黒く変質した指先。
自分のものではない鼓動。
自分ではない何かが、体の奥で蠢いている。
「もう……分かるの」
穏やかな笑みだった。
恐怖を押し殺した笑顔ではない。
母親が子どもを安心させるような、優しい笑みだった。
「私じゃなくなっちゃう」
ロザーリエの瞳が揺れる。
「嫌ですわ……」
「お願い」
シオンはゆっくりとロザーリエへ手を伸ばした。
その手を、ロザーリエは両手で包み込む。
まだ温かい。
まだ、生きている。
「玲司には……見せないで」
「……っ」
「最後まで、お母さんでいたいの」
その言葉が胸を裂いた。
ロザーリエは俯く。
涙が一滴、シオンの手へ落ちた。
「私には……できませんわ」
「できるわ」
優しく返す声。
「ロザーリエちゃんは、優しい子だから」
「優しくなんてありません!」
ロザーリエは首を振る。
「私は、お父様も、お母様も守れませんでした!」
「今度は貴女まで! どうして、どうして私ばかり……!」
嗚咽が混じる。
シオンは何も責めなかった。
ただ静かに、ロザーリエの頬へ手を添える。
「ありがとう」
その一言だった。
「あなたに会えて、本当に良かった」
黒い侵食が顔へ広がる。
瞳が僅かに濁る。
時間は、もう残っていなかった。
『ロザーリエ。 決めろ』
ハイドラの声は静かだった。
責めることも、急かすこともない。
ただ、事実だけを告げた。
ロザーリエはゆっくり立ち上がる。
悪魔の腕が軋み、黒刃が静かに伸びる。
その刃先は震えていた。
敵を前にした時は、一度も震えなかったのに。
シオンは微笑んだ。
「泣かないで。 玲司を……お願いね」
ロザーリエは声にならない声を漏らす。
そして、悪魔の腕を胸の前で構えた。
「……申し訳、ありません」
その瞬間。
シオンの瞳が赤く染まり始める。
口元が異形へと歪む。
「ロザー……リエ……」
最後まで、人間の声だった。
ロザーリエは歯を食いしばる。
「さようなら……シオン」
黒刃が、真っ直ぐ前へ突き出された。
鈍い音が響く。
胸を貫いた感触が、悪魔の腕を通して伝わる。
温もり。
鼓動。
生命が止まる、その瞬間まで。
ロザーリエは、すべてを感じてしまった。
黒刃を引き抜く。
シオンの身体は静かに前へ倒れかける。
ロザーリエは慌てて抱き止めた。
その身体は、まだ温かかった。
「…………」
声は出ない。
涙だけが止まらない。
戦場では決して流れなかった涙が。
今になって、溢れ続けていた。
「ロザーリエ!!」
玲司は駆け寄ってくる。
「無事で良かった……。 みんなのことは避難させたから、安心してくれ」
ロザーリエは振り返らない。
玲司は嫌な予感を感じた。
玲司は回り込むと、ロザーリエの顔を見つめる。
そこに、いつものロザーリエはいなかった。
目から光は失われていた。
「……間に合いませんでしたわ」
一言。
それだけで、玲司は何があったのか理解した。
ロザーリエが抱えているものが、母であることも。
玲司はゆっくりとロザーリエの前へ歩み寄る。
腕の中で眠るシオンを見つめる。
その顔は穏やかだった。
苦しみから解放されたように、静かに目を閉じている。
玲司は膝をつき、震える手で母の頬へ触れた。
まだ温もりは残っていた。
「……母さん」
返事はない。
分かっている。
それでも、その名を呼ばずにはいられなかった。
玲司はそっとシオンを抱き寄せる。
唇を強く結び、俯いた。
肩が小さく震えている。
だが、涙は流さなかった。
ただ、静かに呼吸を乱しながら、その温もりが失われていくことだけを感じていた。
ロザーリエは立ち尽くしたままだった。
何も言えない。
何も言う資格がない。
やがて玲司は、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
その一言に、ロザーリエの身体が震える。
「母さんを、一人にしないでくれたんだな」
ロザーリエは目を見開いた。
違う。
違いますわ。
私は――。
喉まで込み上げた言葉は、声にならなかった。
玲司はシオンを見つめたまま続ける。
「最期まで、そばにいてくれて……ありがとう」
ロザーリエは俯く。
視界が滲み、地面が見えなくなる。
黒刃で貫いた感触が、右腕から離れない。
鼓動が止まる瞬間。
温もりが消えていく瞬間。
そのすべてが、今も腕に残っている。
「……申し訳、ありません」
かすれるような声だった。
玲司は首を横に振る。
「謝らないでくれ。 ロザーリエは、守ろうとしてくれた。 それだけで十分だ」
その優しさが、ロザーリエには何より苦しかった。
自分は真実を隠している。
救えなかっただけではない。
この手で終わらせた。
それなのに、玲司は自分を責めない。
感謝さえしている。
ロザーリエは拳を握り締めた。
爪が食い込み、掌から血が滲む。
痛みなど、何も感じなかった。
ただ一つ、胸の奥に刻まれた罪だけが、静かに重く沈んでいく。




