第9話 追撃戦
「太后、富平にて我が軍は敗北したとの事です。急ぎ、ご退却下さい!」
張徳遠の五路の計が破れ、宋軍が総退却したとの報告を受けた。
「岳飛に防がせよ!」
「それが…岳飛は陝西にはおりません。山東で兀朮を撃破したと聞いております」
「山東で?」
「はい、そして敗れた兀朮は本国に帰るかと思いきや、敗残兵を集めて富平の戦いに参戦したそうです」
兀朮のフットワークの軽さに驚き、そして呆れた。
「戦闘民族かよ」
だが追撃を受ければ、宋軍は大打撃を被る。韓世忠は江東で陛下を守っている。劉光世らに近いのは、俺の軍勢だ。
「命令を下す。全軍、張徳遠軍を追撃する金軍の背後を突き、これを殲滅する!」
張徳遠は敗戦の責任を追求して、趙哲を斬首した。そして劉子羽に、バラバラになった他の諸将の位置を探らせ、興州に集合させた。
劉子羽は、朱子学を興した朱熹の父である朱松の親友で、朱松は朱熹が14歳の時に他界したが、劉子羽が朱松との約束で朱熹と朱熹の母の生活保護をしていた。朱熹の恩人である。朱子学は江戸時代、武士達の教本となった為に日本人には有名だろう。
朱子学の基本的な考え方は「理気二元論」であり、「理」とは、万物がこの世に存在する根拠の事で、「気」とは万物を構成する物質である。両者はそれぞれ別のもので単独では存在出来ず、互いに作用し合う関係にある。
理気二元論を人間に当てはめると、「性即理」になる。「性」とは人間の本質で静かな状態であり、つまり「理」である。性が動くと「情(気)」となり、情のバランスが崩れると「欲(悪)」になるとされている。このため、人は常に情をコントロールして、性に戻さなければならない。
また朱熹は理気二元論により、全ての物事には上下関係があると導き出し、その上下関係は人間社会にも存在する。そして、自分よりも身分が上の人や父親の言うことは絶対であるとする「君臣父子の別」を重んじるのが、朱子学の特徴だ。この為に人の上に立つ君主に取っては、非常に都合の良い思想であった。
さらに張徳遠は、呉玠に和尚原(鳳翔府)を守らせた。呉玠も、岳飛や韓世忠に次ぐ名将の1人である。
鳳翔府は唐の時代に起こった安史の乱で、唐が安禄山から長安を取り戻す為の重要拠点となった事でも知られる地である。
高宗は、金軍の目が陝西に向いている隙に、韓世忠らに守られて海路で越州に戻った。越州に戻ると高宗は、和議派の宰相(左相)だった呂頤浩を罷免し、まだ30歳だった主戦派の范宗尹を宰相(左相。右相は張順)に据えた。
俺は、和尚原へ急行した。
「よし、捉えたぞ。全軍、突撃!」
俺は馬車から馬に飛び乗って、剣を掲げて突撃の号令を掛けた。宋軍は怒号を挙げて、無防備な背を晒す金軍に突撃した。
「ううらぁ!死ね!」
南に逃げる張徳遠を追撃する金軍は、直ぐに反転して迎撃する事が出来ず、その体勢が整う前に斬り込んだ。
「死ねぇぇぇ!」
背を向けたまま、ほとんど抵抗出来ずに金軍は討たれていく。味方のほとんどが、全身に返り血を浴びて朱に染まっていた。
「くそっ!」
「遅いわ!」
それでも反転して反撃を試みる者達もいたが、間に合う事無く一方的に斬殺された。
「うおぉぉぉ!」
俺に向かって、突撃して来た金将がいた。北方騎馬民族である彼らが、騎馬を捨てて白兵戦に出るなど想像もしておらず、完全に不意打ちであった。
「ぐうっ」
勢いよく飛ばされたが、受け身を取って地面を転がった。
「馬鹿め、白兵戦なら侍の得意とする所だわ」
「太后だな?貴様の首を取れば、我が金国の勝利だ!」
「ふふふ、はぁっははは。加州清光…」
加州清光は、かつて池田屋事件で沖田総司が近藤勇、永倉新八、藤堂平助と共にたった4人で乗り込んで、尊王攘夷派の志士20名以上を皆殺しにした時に使用していた刀である。
この時、刃先が折れてしまい、鍛冶屋に修理を頼んだが、修復不能として突き返された刀だ。この後に沖田総司が差した刀は、大和守安定である。沖田総司が差していたと言われる有名な菊一文字則宗は、フィクションだと言われている。
その理由は、大名ですら差す事が出来なかったほど高額な刀であったからだ。刀屋播磨屋・道伯が沖田総司を気に入って、一万両貯まるまで貸し付けると言って譲った話は創作だとされている。
しかし、この作品に於いては、菊一文字則宗は沖田総司が差していた刀とする。
金将が向かって来たので、その槍を受け流して間合いに入った。
「三段突き!」
沖田総司の、初見殺しと呼ばれ恐れられた必殺技である。踏み込む足音が1度しか聞こえないほどの瞬歩で間合いに入り、全体重を掛けて倒れ込む様にしながら超高速で三度突く剣は、初見であれば誰も躱わせないと言われた。
沖田総司が、猛者が集う新撰組の中で1番隊組長であったのは、この三段突きによる所も大きい。
名も知れぬ金将を討ち果たすと、太后と見て反転して来た金兵が群がって来た。
「雑魚が何人来ても勝てるものか。村雨…」
加州清光を消して、妖刀・村雨を具現化した。村雨が妖刀と呼ばれるのは、刀が血を欲して剣の持ち主は自我を失い、狂戦士化してしまう為だった。
「あははは。来い!来い!来い!村雨よ、思う存分に金兵の血を吸うが良い!」
既にほとんど自我が保てなくなって来た俺は、味方に攻撃しない為にも金軍のド真ん中に向かって斬り込んだ。
「それ!それ!それ!あははは」
全身に返り血を浴びながら、嬉しそうに笑って人を殺す俺に金兵は恐れを成した。
「ひいぃ、魔女!魔女だぁ!」
「化け物、人では無い…。化け物には勝てぬ」
金軍は、俺の姿を見て逃げ惑った。それを何の躊躇いもなく、一方的に殺戮して回った。血に酔うとは、この事だ。現実に人を殺しているのに、まるでゲームの中で人を殺しているかの様な錯覚に陥っていた。
「太后!」
殺し尽くして呆然としていると、俺は味方に呼び掛けられて反応し、あろう事か斬りかかった。
「うらぁ!」
「ぎゃ!」
俺を呼んだ侍衛は咄嗟に防御したが、受けた剣は折れて鎧を断ち、数十メートルも飛ばされた。
はっと我に返り、自分が今何をしてしまったのか思い出して侍衛に駆け寄った。幸いにも、気を失っていたが命には別状も無かった。
「済まない、殺してしまう所だった…」
「いえ、私が戦闘中で気が立ってらっしゃる太后に、お声を掛けてしまったのが悪いのです。それに…私の命は太后様の物。それなのに、お気遣い頂き恐縮です」
俺がこの者達の、宋軍の命を握っていると思うと、急に恐怖を感じ出した。日も暮れて来たので、今夜は戦闘を切り上げて夜営の準備を命じた。




