第5話 八字軍
宋軍が連勝して北伐を続けると、遂に金軍は南征軍を興した。兀朮は水軍を率いて韓世忠に当たり、粘没喝は劉光世を食い止めに行き、太后である俺には斡離不の軍勢が向かっているとの報告を受けた。
「斡離不か…」
相手にとって不足なし!兀朮を除けば、金国史上最高の名将と謳われた男だ。
索敵を行っていると、金国の間諜を発見した。拷問して取り調べても無駄だったので、自白剤を用いて口を割らせた。すると、直ぐ近くまで金軍の先遣隊がいるとの情報を掴んだ。
「よし、罠にかけてやろう」
こちらも先遣隊を派遣してわざと金軍の索敵にかかり、誘き寄せて罠に嵌める作戦だ。
一刻後、百人足らずの兵で偶然を装って金軍の前に出た。その宋軍を金軍は、千騎ほどで追って来た。寡兵である為、バタバタと狙い撃ちされて討たれたが、上手く誘導して来た。
「よし、良いぞ」
追って来る金軍に狙い澄まし、矢を撃ち込むタイミングを図った。
「うおー!」
「ギャア!」
突然、悲鳴と怒号が入り交じり、何が起こったのか理解出来ずにいると、背後と側面から同時に金軍が突撃して来た。斡離不に、こちらの策が読まれていたのだ。
「何だ?何が起こった?」
「金軍です!ここは防ぎますから、太后はお逃げ下さい!」
そう報告した侍衛は次の瞬間に、矢で頭を射抜かれて目の前で絶命した。
「斡離不かぁ!?」
その問い掛けに対して金軍の将は、矢を放って応えた。
『神眼』
矢の軌道が映し出されて、矢はまるでスローモーションの様にゆっくりと時が流れて見えた。
「吹毛剣!」
楊家将伝来の宝剣を具現化して、斡離不が放った矢を斬り落とした。
「ほぅ?やるな」
斡離不は騎射で俺の側を駆け抜け、俺がいる馬車目掛けて矢を撃ち込んだ。弓矢の名手である彼は、寸分の狂いも無く頭、喉、胸の3箇所を同時に射て来た。
「すわっ!」
ほとんど同時に射込まれた矢も、『神眼』の前では止まってる様に見える。まったく、チートにもほどがある。3本とも払い、あるいは斬り落として見せた。
(職業が侍の俺は、遠距離攻撃が苦手だ。近くに来たら蹴り落として、近接戦闘に持ち込んでやろう…)
しかし、斡離不だけに気を取られている訳にもいかない。この隊を率いているのは俺だ。指揮をする者がいない為に、宋軍は各各が単独で金軍を防いでいる。その為に各個撃破され、宋軍は兵数を減らした。
「くそ!このままでは全滅も時間の問題だ」
軍師がいないのは、これほどまでに辛い戦になるのかと痛烈に感じた。「全軍退却!」と言い掛けた時、何処の軍か所属不明の軍団が金軍の側面を突いて救ってくれた。その軍団は、皆が顔に刺青を施している異様な集団であった。
「おおぉ!我が軍の窮地を救ってくれた、あの軍は何処の軍だ?」
「あれは、八字軍です!」
八字軍は王彦によって組織された義勇軍で、金国の支配に抵抗する武装集団である。八字軍の兵士達は「赤心報国、誓殺金賊」の8文字を顔に刺青していた事で良く知られる。王彦は宋国の将軍だが、この八字軍は元々は金軍に対抗する為に王彦が集めた、言わば私兵集団であった。
八字軍は次第に規模を拡大して十九もの義勇軍と連合し、その兵力は十余万人にも達した。宋国への愛国心が強く、金国への恨みが強い者らで構成された八字軍は、金軍の討伐を何度も退けて見せた。
この八字軍に頼る事を宗沢は考え、八字軍を宋国に帰順させて御営に編入した。この八字軍には岳飛も協力を依頼していた程で、梁山泊以外では精強な独立軍であった。
「八字軍?王彦か!」
さすが斡離不は名将で、状況不利と見るや被害を拡げる事無く、あっさりと金軍は退いた。孫子にもある。重要なのは、如何に上手く負けるかであると。
敗北が確定しているのであれば、被害が少ないうちに退き、体勢を整えてから再戦すれば良い。引き際を弁えずにズルズルと戦い、2度と立ち上がれぬほどの被害を出すのは愚か者のする事だと。重要なのは、その見極めである。
引き際を弁え、冷静に状況分析した斡離不は、さすが名将たる所以であった。
「礼が言いたい。八字軍の将を呼んで欲しい」
「はい。太后、畏まりました」
数分後、侍衛が八字軍の将を連れて来た。将の後ろには、彼を守る様にして2人の共が付いていた。
「面を上げよ。其方が王彦であるか?」
「太后娘娘に拝謁致します。某は、王彦では御座いません。八字軍左軍兵馬都監・柳順と申します」
「柳順とやら礼を言う。八字軍のお陰で我が軍は救われた。評定で改めて褒美を遣わそう」
「王彦に代わって、お礼申し上げます」
柳順は、恭しく拝礼して下がった。そしてそのまま金軍へ突撃して行った。
「それにしても…」
八字軍の兵達は顔に八文字の刺青をしているだけの者もいれば、文字の見分けもつかないほど顔と言わず全身隈なく刺青が施されている者もいた。
日本人の俺は、刺青に良い印象が無い。ここ数年でこそタトゥーをファッションの様に入れる若者も増えたが、それでも刺青=ヤクザのイメージが拭えず、刺青に恐怖にも似た感情が芽生える。
八字軍の活躍で、窮地を免れただけで無く、斡離不の軍勢を大破する大勝利を得た。斡離不は、命からがら北へ逃げて行った。
これは、ただの勝利では無い。斡離不は、粘没喝と並ぶ金軍の双璧である。西路軍、東路軍は金国の主力部隊だ。それを打ち破って見せたのだ。
「なるほどね。宗沢や岳飛が頼りにする訳だ。八字軍か…強い。それにしても…皆んな顔が怖いな(笑)」
此方の戦場は、あらかた片付いた。落ち着いて来ると、韓世忠や劉光世の戦場が気になった。




