第4話 北伐
実は金の太宗も将軍達も、宋国を滅ぼすつもりなど全く無かった。先に滅ぼした遼国の統治だけでも、手に余っていたからだ。
しかも金を建国した女真人は300万人余りしかおらず、戦や飢饉で人口が激減したとは言え、宋の人口は3000万人を超えていた。金国の目的は、宋を弱体化させて今よりも多くの歳幣を得る事にあり、支配を望んではいなかったのだ。だから皇族らを北に連行し、東京開封府を占領統治などしなかった。
その代わり、漢民族には漢民族を用いて支配させる戦略を取った。それが大楚国であり、元宋国の宰相であった張邦昌の擁立と言う傀儡国の建国であった。
しかし張邦昌は宋国への忠義を忘れておらず、金国の傀儡となったフリをして金軍が引き上げると、帝位を放棄して元祐皇后・孟氏を迎えて自身は太宰としてその補佐に回った。元祐皇后は康王・趙構を指名して皇帝に擁立して、自らは垂簾聴政を行った。
これにより金国が傀儡として建国した大楚国は、僅か32日で滅亡したのだ。その後、張邦昌は高宗のいる南京応天府に出頭したが、宰相の李綱が「理由は何であれ、宋に弓を引き偽帝となった罪は重く、自ら帝位を辞したくらいで罪は贖えない」と、処刑を強硬に主張した為に高宗は毒酒を賜り、張邦昌はそれを飲んで自害した。
張邦昌が死んで大楚国が滅ぶと、金国は劉豫を擁立して斉国を建国した。この斉は他の時代の斉国と区別する為に、劉斉国や偽斉国と呼ばれる。
翌1128年、金軍から宗爺爺と呼ばれて畏れられた宗沢が亡くなった。憤死であった。東京開封府留守として開封府を金軍から堅守し、南京応天府の高宗に開封還御と北伐の要請を度々上奏したが悉く黙殺され、憤りから病に倒れてそのまま帰らぬ人となった。高血圧にも関わらず、興奮して倒れたのだろう。
「宗沢が亡くなったって!?」
宰相に迎えるつもりだった宗沢が亡くなり、計画が狂った。
(もう一層の事、岳飛を宰相にしてしまおうか?)
だが岳飛は将軍としては有能でも、政治家には向いていない。余りにも実直過ぎる。そのせいで秦檜と対立し、処刑されてしまったのだ。
(他に適任者は…)
軍事的才能を持つ者はいても、宰相の器では無い。劉光世か張俊はどうだろうか?いや、岳飛を処刑するように仕組んだ黒幕が、実は張俊だとも言われている。その為、岳王廟には秦檜夫婦だけでなく、岳飛の墓の前に張俊が跪いて許しを乞うている像が作られている。
結局、宰相不在のまま年が明け、1129年となった。『太后親征』このセンセーショナルなニュースは、大陸中を駆け巡った。
俺は南京から韓世忠に守られながら北上し、長江を渡って上陸すると分かれて韓世忠は水軍で北京を目指し、劉光世は北上して開封を攻めると見せ掛けて大名府から河間府を目指す。3路より北伐を敢行し、大興府を目指して合流する計画だ。
そこからは大定府が狙える位置であり、金軍が南下する際の重要拠点であった。遼陽府や臨潢府まで押し返す事が出来れば、悲願の燕雲十六州は手に入る。
「北狄の賊を討ち滅ぼし、中華の版図を取り戻す!」
「おおぉー!!」
岳飛は、留守になった隙を西夏に狙われ無い為の要として、興元府に置いて睨みを利かせた。張俊はイマイチ信用が出来ないので、置いていく。
出陣前に、劉光世の軍に懐かしい顔見知りがいた。元梁山泊騎兵軍八虎将兼先鋒使だった朱仝だ。方臘戦から金軍との戦を経て凱旋すると、昇進して保定府都統制となった。その後、劉光世の軍に組み込まれて、劉家軍の一員となっていたのだ。
「仝哥(仝兄貴)!お久しぶりね」
「これは太后娘娘、兄貴などと畏れ多い…。太后娘娘もお変わり無く…」
「コホン…。朱将軍、梁山泊の兄弟達の多くが金軍によって殺されたわ。今こそ仇を討ち、北を取り戻して虐げられる民を救うのよ!」
「太后は英明なり!万歳!万歳!万万歳!」
朱仝はそう言って、恭しく拝礼して下がった。万歳を唱えるのは、皇帝だけに許された歓呼の儀礼である。
皇帝以外の皇后や太后、太子(皇太子)などに対しては、「千歳!千歳!千千歳!」と言うのが本来の姿であるが、一人称を「朕」と呼ぶ事を許されたと言う事は、皇帝と権威が同格である事を許可されたと言う事だ。
「朱仝、お前は死ぬなよ…」
呼延灼も死んだ。生き残った梁山泊のメンバーの中では、朱仝が最強だろう。寂しくなったなぁと感傷に浸っていると、自然と涙が流れて侍女の林氏に心配された。
3路より宋軍が攻めて来ると聞いても、金軍は現地に駐屯させた兵だけで対応させ、援軍を送る様子が見られなかった。実は見られなかったのでは無く、金国はそれどころでは無かったのだ。
諳班勃極烈とは、金国における皇位継承者の事であり、つまり皇太子問題で混乱していたのだ。
太宗は初め、太祖・阿骨打の弟である完顔斜也を諳班勃極烈 (太子)に立てていたが、宋が攻めて来る数日前に亡くなった。金の太祖の嫡子である完顔繩果は1124年に遼との戦いで戦死しており、太祖の長子である完顔斡本と太宗の長子である完顔蒲魯虎は、自らが皇太子となるべきだと主張して譲らなかった。兀朮も密かに、次の諳班勃極烈 (太子)の座を狙っていた。
『祖宗実録』を編纂した事でも知られる完顔烏野が初めて、金の太祖の嫡孫であり繩果の長男である完顔合剌を推挙する議を立て、完顔粘没喝、完顔斡本、女真文字を作った大学者の完顔谷神(完顔希尹として知られる)の支持を得て、天会10年(1132年)に完顔合剌を諳班勃極烈とし、後継者問題に決着がつくのである。
建康府から一気に北上して駆け抜け、應天府を取り囲むと僅か2日で陥落した。まだ宋への忠誠を誓う民は多く、降伏勧告の矢文を撃ち込むと城内で叛乱が起きた。門が開けられて城内に雪崩れ込み、守将を討ち取った。
宋の民からは、歓喜の声で迎えられた。金軍は略奪の限りを尽くし、女と見れば見境なく犯した。まだ7歳ほどの幼女から80歳を超える老婆までもが毒牙にかかり、その父や夫達から金軍は深く恨まれていた。
「太后は、古の孫呉に勝るとも劣らぬ兵法家で御座いますな?」
確かに生前は趣味で孫子や呉子、六韜に三略、春秋や兵法三十六計、司馬法に韓非子など読み漁ったけど、現代に伝わる兵法書は現存する一部のみだったりする。
だからこの時代に生きる彼らの知識に及ぶはずも無く明らかにお世辞だと分かるのだが、分かっていても褒められると嬉しくなりニヤけてしまう。本当に恥ずかしいから、もう止めて欲しい。
次に狙うは、大名府だ。この大名府が厄介な所は、相州と邢州の小城が近くにあり、『掎角の計』によって大名府の守りが固い事であった。
「大名府さえ抜ければ、次は真定府だ」
ここまで来られれば、燕雲十六州の奪回は近い。




