第54話 護送
ガタガタと揺れが激しく口を開いていると、何度も舌を噛みそうになったので話すのを止めた。刀は取り上げられ、両腕と両足は鎖で繋がれ首枷までハメられて、木枠で組まれた檻に入れられた。
童貫は馬車に乗らず、その横で並行して馬に乗り俺を見守っていた。途中の休憩などでは、自分よりも先に童貫が自ら食事を与えてくれた。童貫は敵が多く自らも命を狙われる立場であるにも関わらず、馬車の中に閉じ籠らず騎乗していたのだ。
童貫にとって俺は、ただの持駒の1つに過ぎなかったはずなのに、まるで弟子や妹、娘に対する様に接してくれている。童貫の優しさや温かさには、涙が出るほど感激する。物語の登場人物として、また史実で知る童貫のイメージとも随分と異なる。
童貫は欽宗が即位すると、陳東らに遼国や金国との敗戦の責任を追求され、六賊と弾劾されて流刑となった。童貫が復職した時の報復を恐れて、陳東らは更に欽宗に讒言を繰り返し、童貫は海南島へ流刑の途中で死罪となり、斬首されるのである。
徽宗皇帝は皇宮の奥へと追いやられて芸術に没頭していたが、1125年に金国に首都開封府を包囲されてようやく目が醒めた。蔡京らを信用して任せていた事を後悔したが既に遅く、責任をとって息子の欽宗に譲位する。欽宗は金国に多額の賠償金を支払い、領土の割譲を約束して金国は引き上げた。
これら一連の責任を全て童貫に押し付けて、処刑したのである。この時は既に、蔡京は病死してこの世を去っていた。童貫は蔡京の派閥であり、後ろ盾であった蔡京も既におらず、徽宗も上皇として政治の場から退いた為に庇う者もおらず、蔡京の代わりに恨みを晴らされたのである。
もし彼に罪があるとすれば、軍事の最高責任者でありながら軍事の才能が無かった事である。無能な上官に率いられた部下ほど、惨めで悲惨なものは無い。イタズラに死者を増やすだけだからだ。しかし人を見る目だけは確かで、韓世忠や岳飛らを重く用いたのは彼の功績である。
しかしこの後、宋国は約束を守らなかった為に金国の怒りを買い、再び開封府は包囲され、今度は許されずに徽宗や欽宗の他、皇后を始めとする妃嬪達を含む皇族や仕える女官や技術者など三千人余りを捕らえて、更に金銀財宝を略奪して北の上京府に連れ去った。これが靖康の変であり、連れ去られた皇族は性奴隷にされたり、奴婢の身分に堕とされて苦役を強いられた。中国では長年、皇族が性奴隷にされると言う屈辱的なこの事件に蓋をし、口に出す事をタブー視していた。
欽宗の仁懐皇后朱氏などは、拉致された道中に金国の将兵数千人から輪姦された挙げ句、奴婢に下賜された。朱皇后は人前で強姦される度に名誉ある死を望んで、何度も自殺未遂を繰り返したが、その度に阻止されて死に切れなかった。
「金人どもめっ、呪い殺してやる!」
朱皇后は自分を犯してゲラゲラと笑っている者、それを見て笑っている者達を呪い、金国に到着すると隙を見て命を絶った(1127年)。この呪いは、後に元によって恨みを晴らされる事となる。
開封府から上京までの道のりは長く険しく、満足に食事も与えられぬまま両手首は縄で縛られ、引き摺られる様にして歩かされた。歩行速度が遅れようものなら、容赦なく鞭が飛んだ。この過酷な行軍により、欽宗の5人の娘達のうち3人が命を落としている。その道中も女達は、盛った兵士達から代わる代わる犯された。
更にこの攫われた者達の中には、康王・趙構(後の南宋の高宗)の母である韋氏や正妻である邢氏(高宗の即位後に憲節皇后の遙封された。遙封とは、皇后が不在のまま冊立する事)と娘までもいた。母の韋氏は50歳に手が届く年齢であったが、金人にとって女は物として扱い、ただの戦利品に過ぎない為に、彼女も容赦なく犯された。非道にも、この道中で犯されて妊娠した女官達が、馬に乗せられて蹴り落とされ、流産させられていたと言う記録まで残っている。
捕らえられた俺も、この様な扱いを受けても不思議では無かったが、それを童貫が守ってくれていたと言う事だ。
既に金国は南下を始めた。金国は強く、北伐した童貫は負け続けた上に兵を見捨てて敵前逃亡する。後にこれが糾弾されて、流刑となる一因になるのだ。
8度目の休憩を、林の中で取った時の事である。酒売りの男達が時々こちらに視線を送ってくるので、目を凝らして見ると、その中の1人は酒売りに扮した楊志であった。顔の痣を隠す為に白粉を塗り、手拭いで顔半分ほど隠していた。しかし、義兄弟である俺の目は節穴では無い。
( 义弟(義弟=俺から見た楊志の事)だ…。まずい、俺が捕らわれたと聞いて救いに来たんだな?何とかして止め無いと…)
「あの、如厠に行きたいんですが…」
童貫は顎で女官に指図すると、女官は俺の後を付いて来た。俺は林の奥、草むらの中へ向かってトイレに行くフリをした。目配せをしたので、それに気付いた楊志が身を隠しながら俺の側まで来た。
「 义弟(義弟)、私は陛下の誤解を解く為に、一度都に行って来る事にしたよ。だから助けなくて良い」
「まずいな、この先の谷に待ち伏せして襲撃する手筈だ。作戦中止の合図を送ろう。だが、本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だから、心配しないで。それよりも田虎と王慶、方臘の本隊が梁山泊に向かってると聞いたわ」
「既に田虎は討伐した。王慶も時間の問題だ。方臘は、本拠地が官軍に陥されたと聞いて、慌てて引き戻したぞ」
「そう?でも金国が南下して来るわ。気を付けてね」
「ああ、嫂嫂(義姉)も気を付けるんだぞ」
俺は、この世界に来て最初に出来た義兄弟の、去り際の背中を見送った。これが今生の別れとなるとは知らずに。




