成田賢太郎の日記(30) 七月九日 (金)
落ち着くために時間が欲しい。午後から仕事だけれど、とてもそんなことしていられる状況じゃない。
有紀子さんが自殺してしまっただなんて・・。
ボクはどうすればいい。何をすれば、彼女に償うことができる。
完全にボクのミスだ。
有紀子さんがどんな状態なのか、もっと落ち着いて観察すべきだった。彼女の立場になってみれば、何をするつもりなのか容易に想像できたじゃないか。いったい、ボクは有紀子さんの何を見ていたというのか。自殺してしまうほど苦しんでいることを、察してあげることはできなかったのか。
有紀子さんが自殺したのは昨日の夜だというから、ボクと別れた後だ。中村が犯人であることを伝えて、ボクを殺すのをやめてくれた後ということ。どうして、あのまま有紀子さんの側にいてあげなかったのか。昨日の自分を殴り飛ばしてやりたい。のん気に日記を書いて眠った自分は、どんな犯罪者よりも愚かだ。一番大切な人を、幸せにすると誓ったはずの有紀子さんが自殺してしまうのを、みすみす許してしまったのだから。
これから、警察へ行こう。有紀子さんが自殺してしまった理由を、それを見逃していた自分の罪を償いにいこう。有紀子さんのお母さんが殺され、その犯人である中村が自殺し、有紀子さんまでもが自殺してしまった。この一連の事件に、きちんとけじめをつけにいこう。そうしなければ、ボクは有紀子さんに謝ることすら許されないように思う。
その前に、有紀子さんが忘れてしまっている、もう一つの真実をここに書き残しておこうと思う。きっと、警察へ行ったとしても、自分の言葉では冷静に伝えられないから。
六月九日、ボクたちの乗っていたタクシーが事故に遭った日のことだ。
あの日、午前中に有紀子さんと待ち合わせをして、二人で映画を見にいくつもりだった。その前日、六月八日にボクの秘密を彼女に伝え、それを受け入れてもらった後のことだった。これからの交際に心配がなくなり、有紀子さんを不安にさせていたことの謝罪を兼ねて、デートのエスコートに気合いを入れていた。前日に運悪くボクの車のタイヤがパンクさせられてしまい、電車やタクシーで移動するしかなかった。でも、そこで乗ったタクシーのせいで、ボクたち二人の運命は変わってしまった。
あの日、別のタクシーに乗っていたら、そもそもボクの車がパンクさせられていなければ、きっと、こんな事件は起こらなかった。有紀子さんが死んでしまうことはなかったし、他の人に被害が及ぶことだってなかった。イタズラで車のタイヤをパンクさせたやつが悪いのだけれど、その犯人は見つかっていない。被害届を出したのに、何も進展はないのだろうか。となると、ある意味では、あのタクシーの運転手を恨むべきなのかもしれない。ボクと有紀子さんの幸せをぶち壊したのは、あのタクシーの運転手であることに違いはない。
有紀子さんは覚えていなかったと思うし、運転手の男性は亡くなっているから、これを知っているのはボクだけになる。あの日のタクシーの中で、何が起きていたのかを。
タクシーの運転手、前田という男は、ボクたち二人を乗せたまま心中するつもりだった。たまたま乗ったタクシーの運転手が死のうとしていたなんて、しかも、乗客を道連れにしようとしていたなんて。いったい、どんな確率だろう。死ぬなら勝手にやってくれと思うばかりだ。ただ、あのときのボクは、有紀子さんを守ることに必死だった。
乗車して行く先を告げた後、前田は運転しながら、世間話をするように身の上を語りだした。定年を過ぎてから奥さんに逃げられたとか、嫁いでいった娘が相手をしてくれないとか、どこかで聞いたような話だった。次第に内容が暗くなり、デート中のボクたちを羨むような、恨むような発言が増えてきた。降りてしまいたかったけれど、有紀子さんの前で感情的になるのも気が引けて、適当に相づちを打っていた。
そして、ようやく前田が結論を出した。『三人で心中しよう』という結論を。
まったく、迷惑極まりない話だった。最初は不謹慎な冗談だと思ったし、隣には有紀子さんがいたから、変な話題は勘弁して欲しくて気が気じゃなかった。それでも少しずつ前田が本気であることが伝わってきて、どうにかして降りなければならないと考えていた。不幸なことに、タクシーは交通量の少ない道を進んでいて、信号もほとんどなかった。事故に遭った現場を思い出してもらえば状況は伝わると思う。 (警察の方へのメッセージです)
スピードがグングン上がり、前田が興奮したように独り言を喋り、あれは本当にホラーだった。どんな映画よりも、自分が体験したあの恐怖の方が勝ると言い切れる。それくらい、前田の雰囲気は壮絶なものだった。有紀子さんは怯え、ボクがなんとかするしかなかった。説得するように話し掛けても叫び返され、なおもスピードが上がっていく。
諦めるしかなかった。無事に解放されることを。
それでも、有紀子さんと二人で生きて帰りたかった。こんなところで彼女を死なせるわけにはいかない、その想いはハッキリと浮かんでいました。だから、強硬手段に出ることにしたのです。
運転席の前田の真後ろには有紀子さんが座り、ボクはその左隣にいました。事故で救助されたときと同じように。有紀子さんには受け身がとれるような姿勢を取らせ、タイミングを見計らって前田につかみかかった。周囲に車のない瞬間を狙って、一回きりの奇襲をかけた。
ハンドルを握っていた前田の首に腕を回し、思い切り締め上げました。上手くできたのかはわからないけれど、結果は、みなさんのご存知の通りです。前田はボクの腕を振り払おうとし、メチャクチャなハンドル操作により、車が車道をはずれて田んぼへ転落していきました。タクシーの顔面から、地面へ叩き付けられるように。
その瞬間の様子は、ほとんど覚えていません。
タクシーに搭載されている機械類は前田が切っていたようですから、車の中の様子は誰にも知られていません。彼が死のうとしていたことはボクしか覚えていないし、誰かに伝えたところでメリットもありませんでした。それが、これまで黙っていた理由です。
とにかく、前田の暴走により、ボクたちは事故に巻き込まれてしまいました。それにより有紀子さんは記憶を失い、結果的に、こんな不幸な事故が起きてしまった。死にたかったという前田の望みは叶ったわけですけれど、彼が生きていたら、殺してやりたいほど憎んでいます。あの男のせいで、ボクたちの幸せは崩壊してしまったのだから。
それでも、あのとき、有紀子さんの命を守れてよかったと思ってきました。記憶を失い、ボクのことは忘れてしまっても、中村と幸せになってくれるなら構わないと自分に言い聞かせてきました。
それなのにこんなことになって、自分の行いは正しかったのか、それすらもわからなくなってしまった。ボクが手を出さなければ前田の気が変わったかもしれないし、事故の程度が小さくなっていた可能性も否定できない。結局、自分の行いが、有紀子さんを死なせてしまったのかもしれません。
明日、警察へ行こうと思います。その前にそちらからやってくるかもしれないし、部屋の片付けでもしておくことにします。
有紀子さんと付き合いだして始めた交換日記は、どこにあるんだろう。昨日の夜、有紀子さんに襲われた後で彼女に渡した。読んでもらうことにしたから。あの日記を、有紀子さんはどうしたんだろう。彼女の家に残っているのかもしれない。燃やしたり処分している可能性はある。
どちらにしろ、彼女がこの世にいないのであれば、あれにも価値はない。
そして、もう、この日記にも価値はない。せいぜい、警察の捜査に役立ててください。




