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ロストメモリー  作者: 島山 平
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成田賢太郎の日記(20) 六月二十九日 (火)

 有紀子さんは無事だ。生きている。自分の足で歩いてくれている。それがわかっただけでも、今日の一日には意味があった。


 朝からずっと、有紀子さんの部屋を眺めていた。ここに書いてしまうと、ストーカーの証拠になってしまうだろうか。

 郵便ポストに入れておいた食料なんかはなくなっていたから、今朝買っておいた分を追加しておいた。有紀子さんのエネルギーとなってくれることを期待して。ポストの中にはチラシもなかったから、毎日誰かが確認しているということ。それが有紀子さんなら嬉しいし、中村課長ならそれでも安心できる。誰かが有紀子さんの側にいるというだけで、どこか救われる気分になれたから。

 部屋の中から有紀子さんが出てきてくれたときは、思わず声を上げてしまった。運転席に座っていたのに、嬉しくてバンザイをしてしまったほど。車体が揺れて、有紀子さんに気づかれなかったか心配だ。

 彼女は部屋着に近かったけれど、靴を履いて、アパートを離れていった。コンビニで買い物をしてアパートへ戻るまで、想像以上に時間が掛かっていた。歩いていると時々立ち止まり、しばらくしてからまた歩き出す。ふとしたときに、お母さんの顔が浮かんでしまうのかもしれない。

 郵便ポストのチェックをして、ボクが入れておいたものを持って部屋の中へ入っていったときは、涙が出そうになった。自分の行為が、有紀子さんの役に立っている気がしたから。もしかすると、ポストに入っていたような怪しいものを、有紀子さんは飲んだりしないかもしれない。部屋の中に入ってすぐに、ゴミ箱へ投げ入れられているかもしれない。でも、それでも構わない。ボクの気持ちが、少なくとも有紀子さんの側へ届いていることには違いないから。受け入れられなくても、ボクのしていることがムダではないのだと、この目で確認できたのが嬉しかった。

 今、有紀子さんは生きている。どんな気持ちで、どれほど苦しんでいるかは想像もできないけれど、必死に立ち止まってくれている。それならば、ボクが彼女のために力を尽くすことができる。努力する意味があると思える。


 自分がこんな顔に生まれて、他人からは羨ましがられてきた。妬まれることはあっても、『残念だったな』なんて声をかけてもらったことはない。

 物心ついた頃から自分の顔が武器になることは自覚していた。だからこそ、それが嫌だった。ボクは成田賢太郎ではなく、非常に整った顔を持つ男、というだけの扱いを受けてきたからだ。役者だったりタレントだったら、願ってもないことだろう。優れた顔があれば食べていける、それがこの世の中なんだから。   

 でも、逆に言えば、中身なんてなんだってよかった。

 それなりに社会性があって他人に迷惑をかけなければ、この顔を持つことを許された。この顔を武器に生きていくことが許された。もしかすると、この顔と同等の内面を持っていれば、自信に繋がったのかもしれない。人よりはるかに優れた頭脳を持っていたり、聖人君主のような広い心を持っていたり、世界を平和にできそうなほどの社交性を持っていれば。でも、ボクにはそのどれもなかった。平凡なつまらない人間が、優秀すぎる顔を持ってしまった。それは不幸を生み出す種となってしまう。

 中学校で作文を書かされ、先生が誰の書いたものか明かさないまま読み上げるという授業があった。読んだ後で、誰が書いたのか明かしていった。生徒たちに、書いた人物の印象を先入観として与えたくなかったのだと思う。

 中には優秀な内容を書いた子もいたし、おもしろおかしく書いてあるものもあった。それらが読み上げられると、クラスがざわついたのを覚えている。内容が、他の生徒の心を動かしたということだ。

 ボクの作文が読まれたとき、クラスは平和だった。静かで、誰も何も感じない。その他大勢、の中の一つに過ぎなかった。

 読まれているときは恥ずかしかったけれど、誰の心にも届いていないことがわかってくると、恥ずかしさや緊張すらなくなった。早く終わればいいのに、と思っていたくらい。でも、読み終えた後、先生はそれがボクの書いたものだと伝えた。あのときの屈辱は、今でもハッキリと覚えている。ボクの名前が読み上げられたとたん、クラスの雰囲気が変わったのだ。『やっぱりね』『かっこいいよね』『感動しちゃった』という悪気のない言葉が浮かび上がった。

 それを聞きながら、どうしようもない恥ずかしさと、絶望感とでも言うべき感情を味わっていた。自分の言葉は誰の心にも響かなかったのに、それを放った人間が顔の優秀なボクだったというだけで、周りの反応は一変したのだから。思い知らされた。自分の内面の薄っぺらさを。きっと、内容のレベルが高ければ、書いたのがクラスの隅で本を読んでいる地味な子だったとしても、評価されたはずだ。書いたのがボクだとわかったとたん評価が変わるというのは、それだけ、内容に価値がなかったということの証。それが伝わってきて、小学生ながらに衝撃を受けたのを覚えている。


 だからこそ、有紀子さんの存在は、ボクにとって特別なんだ。顔じゃなく内面を好きになってくれた、唯一の女性。家族以外で、唯一の人物だ。彼女のような存在がいることは、ボクに勇気をくれた。生きる意味をくれた。

 たとえ恋人ではなくなってしまっても、彼女のために人生を捧げたい。あんなに素敵な人は他にいないのだから、命の恩人とも言うべき彼女の力になりたい。改めて覚悟しなければ。

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