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硝子の穂先  作者: カガミレイ


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第二話 独善の檻

星暦五七二年 七月十五日

 

 あの日、大聖堂の冷たい扉が二人の間を隔ててから、数か月が経った。

 俺はあの夜の約束通り、エルナの前に一度も姿を現していない。彼女は大聖堂の奥深くで聖女としての務めに追われ、俺はしがない一兵士として、王都の警備仕事に明け暮れる。一見すれば、完全に切れてしまった縁に見えるだろう。

 

――だが、俺たちの繋がりは、決して絶たれてなどいない。

 

 俺の自室の机の上には、一冊の古びた魔導書が静かに開かれていた。

 

『対の魔導書(SetLog)』


 古の魔法によって二冊で一組とされたこの本は、片方のページにかざした情景を、魔法の写真――鮮明な静止画としてリアルタイムにもう片方の誌面に浮かび上がらせる代物だ。

 かつて、幼い頃に二人で秘密の交換日記として遊んでいた、思い出の宝物である。

 俺は毎日、欠かさずこの誌面に「写真」を送り続けていた。

 今日俺が送信したのは、澄み渡る秋空の下、王都の大通りを彩る活気ある市場の風景だ。色鮮やかな果物が並ぶ露店、楽しそうに歩く人々、そして遠くに見える、かつて二人でよく登った思い出の丘。

 

『言葉はいらない。ただ、俺が今も同じ空の下で君を思い、見守っていることだけが伝わればいい』 

俺は心の中でそう呟く。

 

 彼女の負担になりたくない。だから文字は書かない。ただ、俺が切り取った穏やかな日常の景色だけを届ける。たとえ直接会えず、言葉を交わせなくとも、この写真が彼女の暗闇を照らす小さな光になればいい。それが俺の差し出せる、変わらぬ愛の形だった。

パサリ、と静かな音を立てて、魔導書の隣のページに新たな「写真」がじわじわと浮かび上がった。

 

 白く冷たい光が射し込む、大聖堂の殺風景な祈祷室の天井。あるいは、冷めきったスープがぽつんと置かれた、味気ない木製の机。

 色彩に乏しく、どこか無機質な、エルナの側から送られてきた日常の一コマだ。

 

(……ああ、エルナ。君も、俺に日常を返してくれるんだな)

彼女からの写真は、いつだって素っ気なく、寂しげだ。

 

 聖女としての能力不足に悩み、日増しに追い詰められている彼女には、色鮮やかな景色を撮る心の余裕などないのだろう。それでも彼女は、こうして魔導書を開き、俺に向けて写真を送り返してくれる。

言葉のないやり取り。けれど、その1枚の写真の裏には、彼女の悲痛な叫びと未練が透けて見えた。

 

『私はこんなにも無能で、あなたを傷つけて追い払ってしまった』

『それでも……あなたと繋がっていたい。私を完全に忘れないでほしい』

 

 俺を拒絶したはずの彼女が、それでも写真を送ることをやめられない。

 それは彼女なりの不器用な甘えであり、俺に対する消せない未練の証だった。

 

「分かっているよ、エルナ。俺はどこへも行かない」

 

 俺は愛おしそうに、誌面に浮かび上がった冷たい天井の写真を指先で撫でた。

 俺の手を拒んだのも、俺を突き放したのも、すべては彼女の罪悪感ゆえだ。ならば俺は、彼女が写真を送り続けられる「安全な壁」であり続けなければならない。どれほど遠く離れようとも、俺だけは彼女の影を受け止め続けるのだ。


 

◇

 

「――正気か、ルシアン=ヴァル」

 

 静寂を切り裂くように、俺の部屋の扉が激しく開け放たれた。

 現れたのは、この国の第一王子であり、現在は聖女エルナの護衛および後見人を務めるレオン王子だった。豪華な飾りのついた騎士服を身に纏い、気品ある顔立ちを激しい怒りに歪ませた彼は、まっすぐ俺へと歩み寄ると、机の上の『対の魔導書』を力任せに叩いた。

 

「……殿下。失礼ですが、人の部屋にノックもなく入られるとは、いささか無礼では」

 

 俺は努めて平静を保ち、静かに立ち上がって礼をとった。

 

「黙れ! 貴様、この期に及んでまだ……まだこんな真似を続けていたのか!?」

 

 レオン殿下は胸倉を掴まんばかりの勢いで俺に迫り、開かれた魔導書――そこに並ぶ、俺が送った色鮮やかな写真と、エルナから届いた無機質な写真の数々を指差して叫んだ。

 

「この魔導書の更新を、貴様は今も毎日のように続けているそうだな! エルナに日常の写真を送りつけ、彼女からの写真を受け取って……満足しているのか!?」

 

「殿下、俺たちは互いの日常を共有しているだけです」

 

 俺は静かに、けれど揺るぎない声で答えた。

 

「彼女は聖女としての重圧と、ご自身の才能のなさにお苦しみだ。俺は直接会うことも、言葉を交わすことも拒まれました。だからこそ、こうして遠くから彼女に寄り添っているのです。彼女もまた、俺に写真を送り返してくれている。これが、俺たちの現在の絆の形です」

 

「絆だと……!? 吹き出すような寝言を言うな!」

 

 レオン殿下は怒りに顔を真っ赤にし、デスクを強く拳で殴りつけた。

 

「貴様は何も分かっていない! 彼女がなぜ、今もその魔導書に写真を送り続けているのか……その本当の理由を考えたこともないのか!?」

 

「……本当の理由?」

 

 俺が首をかしげると、殿下は心底おぞましいものを見 るような目で俺を睨みつけ、吐き捨てるように告げた。

 

「恐怖と、義務感だよ!!」

 

「……何とおっしゃいました?」

 

「彼女はお前を恐れているんだ! あの夜、あんなにも悲痛に『拒絶』したというのに、お前は毎日毎日、安全地帯から能天気に自分の『輝かしい日常の写真』を送りつけてくる! 写真が届くたび、彼女は背筋を凍らせているんだよ! 『私をまだ監視している』『私の拒絶は届いていなかった』『返信を拒んだら、彼が何をするか分からない』とな!」

 

「な……」

 

 思わぬ言葉に、俺の思考が一瞬停止した。

 

 レオン殿下は容赦なく、言葉の刃を俺の胸へと突き刺してくる。

 

「彼女は聖女としての実力不足に苦しみ、心身ともに限界を迎えているんだ。そこにきて、お前からの無言の圧力が毎日届く! 『写真を送り返さなければ、幼馴染としての最低限の誠意すら見せない冷酷な女になってしまう』という恐怖と義務感に囚われ、震える手で大聖堂の冷たい天井や床を撮影して送っているんだよ!」

 

「違います……! エルナは俺との繋がりを求めるからこそ――」

 

「お前の送る鮮やかな写真の数々が、彼女にどれほどの拷問になっているか想像してみろ!」

 

 殿下は俺の言葉を激しく遮った。

 

「成果を出せず大聖堂の奥で苦しむ彼女に、お前は外の世界の楽しそうな風景を見せつけ、『自分はこんなにも順調だ、お前を思ってやっている』と誇示しているに過ぎん! 彼女はお前の写真を見るたび、己の無能さと惨めさを突きつけられ、義務感の鎖で首を絞められ続けているんだ! お前のやっていることは愛などではない! 暴力よりもタチの悪い、冷酷な精神的拷問だ!」

 

「…………」

 

 静寂が部屋を支配した。

 なるほど。そうだったのか。

 レオン殿下の言葉は、鋭く俺の胸を穿った。

 

(……ああ、そうか。そこまで彼女を追い詰めてしまっていたのか)

 

 俺が差し出していた写真は、彼女にとって救いなどではなく、逃げ場のない「義務感の鎖」だったのだ。

俺が順調に日常を送り、彼女を思えば想うほど、才能のない彼女は自分の惨めさに打ちのめされ、恐怖に震えながら写真を撮って送り返していたのだ。

 

 俺の愛が、彼女を責め立てていた。俺の優しさが、彼女を拷問にかけていた。

 

「……承知致しました、殿下」

 

俺は静かに目を伏せ、深く息を吐き出した。

 

「ですが……俺は、この魔導書の手を止めるつもりはありません」

 

「なに……!?」

 

 レオン殿下は信じがたいものを見る目で、目を見開いた。

 

「貴様、今私が言ったことを理解したのか!? 彼女はお前の写真に、その義務感に怯えて苦しんでいるのだぞ!?」

 

「理解しましたよ、殿下。俺の送る写真が、彼女を義務感という鎖で縛り、惨めさに追い詰めていると」

 

俺は薄く、悲しげな笑みを浮かべて見上げた。

 

「ですがね、殿下。彼女が苦しんでいるからといって、俺が写真を送るのをやめれば……それこそ俺が彼女を見捨てたことになります。彼女が義務感であれ何であれ、俺に写真を送り返してくれている以上、俺がその手を開いてしまえば、彼女は本当に一人になってしまう」

 

「貴様……狂っているのか……! 彼女を傷つけていると分かっていて、なお己の自己満足を押し通すというのか!?」

 

「ええ、身勝手な独善ですよ」

 

 俺は静かに頷いた。隠すつもりなど最初からない。

 

「俺の愛情がどれほど彼女を苛もうと、俺は『彼女を愛し続ける自分』を捨てられない。彼女が俺の写真に怯え、義務感で写真を返してくるというのなら、俺はその毒をすべて引き受けてでも、彼女を愛し続けるべきだ。それが、彼女を追い詰めてしまった俺にできる、唯一の償いなのですから」

 

「……っ!」

 

 殿下は激怒のあまり言葉を失い、拳を固く握りしめて激しく震えていた。その瞳には、純粋な蔑みと、人外の異常者を見るような戦慄が宿っていた。

 

「……身勝手極まるな、ルシアン=ヴァル。お前のような毒を、これ以上エルナの近くに置くわけにはいかない」

 

レオン殿下は冷ややかに見下ろし、王族としての冷酷な威厳を込めて言い放った。

 

「彼女はただの娘ではない。この王国の安寧を支える『聖女』なのだ。一兵士の貴様が撒き散らす歪んだ毒のせいで彼女の心が壊れ、聖女の奇跡が失われれば……この国は内部から崩壊する。貴様のエゴのために、国を危険に晒すわけにはいかんのだ」

 

「殿下……」

 

「本来なら罪にも問われん程度の行いだが、だからこそ余計にたちが悪い。――私の権力において、貴様を本日付で国外追放とする。二度とエルナの前に、この国に足を踏み入れるな」


「……謹んで、お受けいたします」

 

 俺は静かに頭を下げた。

 断罪の言葉が、部屋の中に冷たく響き渡る。

 

 これでいい。

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