第一話 最善の配役
初めまして。カガミレイと申します。どうぞ、ルシアン君の物語をお楽しみ下さい
星暦五七二年 三月十九日
静寂だけが重く支配する大聖堂の奥深く。高天窓から差し込む青白い月光が、ひんやりとした石畳の床に冷たい陰影を落としていた。
幾重にも焚かれた白檀の香煙が薄く漂い、壁面に並ぶ神々の彫像が、まるで罪人を監視するかのようにこちらを黙視している。
外の世界から切り離されたこの場所は、神聖であると同時に、息もできないほど閉塞した監獄そのものだった。
その祈りの台座に、膝をついたまま動かない一人の少女がいた。
「……やはり、私には務まらないのでしょうか」
ぽつりと漏れ出た言葉は、夜の冷気に吸い込まれ、高天井へ向けて寂しく反響した。
彼女――エルナは、街の人々から『聖女』と崇め奉られている。
わずか数年前、彼女の内に秘められた奇跡の適性が発見されて以来、彼女はこの大聖堂に祭り上げられ、病に苦しむ人々や傷ついた兵士たちを救う役目を担わされてきた。
しかし、神聖不可侵の象徴として担ぎ上げられた代償は、あまりにも大きかった。
民からの絶え間ない期待と、大司教たちの政治的な思惑。それらに対する彼女の『聖女としての器』は、あまりにも小さすぎたのだ。
どれほど祈りを捧げても、彼女の発現する奇跡の力は弱く、高度な神聖魔術の習得は遅々として進まない。重病者を目の前にしても満足な治癒を施せず、期待の眼差しは次第に失望と焦燥へと変わっていった。
「本当に彼女が本物の聖女なのか?」「この程度しか救えないのか」――人々の透けて見える失望の視線と、自身の圧倒的な実力不足。その容赦ない現実が、彼女の小さな肩へと重く圧し散っていた。
最近のエルナは、まともに食事すら喉を通らない様子だった。
かつては陽光を反射して眩しいほどに輝いていた金髪は、いまや塗りを失ってパサつき、蒼穹を映したようだった美しい瞳の周囲には、深く濃い陰りが落ちている。削げ落ちた頬と、血色の失せた薄い唇。かつて幼馴染として共に野山を駆け回っていた頃の可憐な面影はどこにもなく、まるで自我を持たない精巧な蝋人形のようだった。
「そんなことはない、エルナ。君は十分にやっている」
俺――ルシアンは、膝を折って彼女と視線の高さを合わせた。
革手袋を外し、そっと差し出した両手で、彼女の冷え切った小さな手を包み込むように握りしめる。指先から伝わってくるのは、痛々しいほどの小ささと、生命力を感じさせない冷たさだけだった。
彼女が聖女としての『役不足』に打ちのめされ始めてから、俺は自分にできる限りの手を尽くしてきたつもりだった。
自分の力不足に苛まれる彼女のために、騎士団の知識層から魔術の古書や解説書をかき集めて手配した。仕事の合間を縫っては、彼女が少しでも成果を出せるよう、神聖魔術の効率的な練気法や手引きを共に読み解こうと提案した。
それだけではない。大司教や神官たちのもとへ何度も足を運び、「成果を急かしすぎないでほしい」「彼女の成長を温かく見守ってくれ」と頭を下げて直訴し、周囲からの批判の刃を俺が少しでも遮ろうと泥をかぶった。非番の日は、彼女が少しでも心を休められるよう、二人の思い出の野の花を摘んでは大聖堂へと通い詰めた。
幼馴染として、一人の男として、俺にできるあがきはすべてやった。
――だが、状況は何一つ改善しなかった。
俺がどれほど奔走しようと、彼女の『才能の壁』はどうにもならず、大司教たちの冷ややかな評価も変わらなかった。俺が差し出すささやかなアドバイスや気遣いなど、彼女の能力不足という残酷な現実の前には無力だったのだ。
そして、面会に通い、俺が必死に手を尽くしてあがく姿を見せるたび……彼女の瞳から光が消えていくのを、俺は見逃さなかった。
『ルシアンは私のためにこんなにも手を尽くしてくれているのに、私は成果を出せない』
『これだけの手を差し出されても何も変われない私は、どれほど惨めで、役立たずなのだろう』
何をやっても成長できないという、底なしの無気力。そして、彼女を救おうと必死に手を伸ばす俺の存在そのものが、彼女に「己の無能力さと惨めさ」を容赦なく突きつける残酷な鏡となっていたのだ。
俺が優しさを見せれば見せるほど、彼女は自分の能力のなさに打ちのめされ、自責の念に押し潰されていく。
(俺の存在が……俺の差し出す救いが、彼女を追い詰めていたんだ)
胸の奥で、冷たい刃が突き刺さるような激痛が走った。
だが、ならばこそ――俺にはもう、この言葉しか残されていない。
「俺がいる。無理をする必要はないんだ、エルナ。……いざとなれば、この街も、聖女の務めもすべて捨てて二人で遠くへ逃げてもいい。聖女になんてなれなくたって構わない。俺が何をしてでも、どんな泥仕事をしても君を養う。だから……お願いだ。もう自分を追い詰めるのはやめてくれ」
俺は必死に、胸の底からの言葉を紡いだ。
これが、俺に残された最後の『救いの手』だった。地位も、騎士としての将来も、すべて捨てる覚悟だった。
しかし。
「――触らないで」
静かだが、氷のように冷たい拒絶の言葉が、その小さな唇から漏れ出た。
エルナは俺の手を拒むように、ゆっくりと、けれど確かな力で自らの手を開いた。
指先が離れ、俺の体温が空しく夜の冷気に逃げていく。差し伸ばした俺の手は、行き場を失って空中にとり残された。
「エルナ……?」
「ルシアン……お願いですから、もう私に関わらないでください。……あなたとは、二度とお話ししたくありません」
彼女は一度も俺の顔を見ようとしなかった。ただ固く瞳を閉じ、拒絶の壁を俺との間に築き上げる。
伏せられた睫毛が、微かに揺れていた。祈りの台座に置かれた彼女の背中は、痛々しいほどに震えている。
(……ああ、そうか。そうだったんだな、エルナ)
俺は胸を引き裂かれるような痛みを覚えながらも、その拒絶の真意を、痛いほどに悟ってしまった。
どれだけ手を尽くされても期待に応えられない自分への絶望。何をやっても変われないという圧倒的な無気力。
その地獄のような罪悪感から逃れるには、もう俺を嫌い、俺という『無駄な救い』を切り捨てる以外に道はなかったのだ。俺の優しさに甘え続けることこそが、彼女にとって何よりの苦痛であり、惨めさだったのだから。
騎士として、光の道を俺が進むほど、エルナの闇はより濃く沈みゆく。
『あなたに嫌われることで、私はこの惨めさから解放されたい』
『私を捨てて、あなただけはまっとうに幸せになってほしい』
言葉にはされなかったその悲痛な叫びが、痛切な悲鳴となって俺の脳裏に鮮烈に響き渡った。
彼女は、彼女自身、そして俺のために俺を拒絶したのだ。自分を犠牲にし、俺に嫌われる悪者になることで、俺をこの泥沼から救い出そうとしたのだ。……なんという、愚かで、あまりにも愛おしい愛情の形だろう。
(君がそこまで覚覚悟を決めて俺を突き放すというのなら……俺がそれを受け止めないわけにはいかないだろう)
俺は深く、深く息を吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の思いに応える唯一の方法は、彼女の望み通り、ここで完全に突き放されてあげることだ。俺が彼女の「諦め」になってやることだ。彼女がこれ以上自分を責めずに済むよう、冷酷な男として去ってやることだ。
「……分かった」
俺はわざと感情を殺した冷淡な声を装い、彼女に背を向けた。
「君がそこまで言うのなら、もう二度と君の前に姿を現さない。勝手にするがいい」
一度も振り返らず、俺は大聖堂の重い鉄の扉を開けて外へ出た。
夜の冷たい風が頬を強く撫でる。背後でズシリと重厚な音が響き、扉が完全に閉ざされた。
これでいい。
これで彼女は、俺という『無駄な救い』に未練を残すことなく、自分を責める惨めさからほんの少しだけ解放されるはずだ。俺を嫌い、切り捨てることで、彼女の心は守られる。
俺たちの関係は、今日ここで完全に崩壊した。
けれど、俺の胸の中にある愛だけは、何ひとつ色褪せてはいない。
「……愛しているよ、エルナ」
見上げた夜空には、冷ややかな月がぽつりと浮かんでいた。俺はその月に向かって、誰にも聞こえない声で静かに呟いた。
たとえ世界中の誰もが彼女を聖女として縛り付けようとも、俺だけは彼女の苦しみを受け止め、彼女のために最悪の男になって去ってみせる。
これが、俺にできる精一杯の愛の形なのだから。




