第三話 モノガタリのオワリ
――そうして、彼女は呪縛から解き放たれ、自由の身となった。
めでたし、めでたし。
「…………」
星暦五七二年 四月十四日
暗がりの中、インクの乾きかけた万年筆が、静かな音を立てて机の上に置かれた。王都の片隅、場末の安アパートの狭い自室。ランプの小さな炎が揺れる室内には、カビと古紙の匂いが重く立ち込めている。
いま書き終えたばかりの手記――第一王子レオンに乗り込まれ、国家の存亡をかけた悲劇の悪役として国外追放を言い渡される『美しき第二幕』の原稿を見つめ、俺――ルシアンは、くすりと喉を鳴らした。
「……ハ、ハハッ……あははははは!」
夜の静寂の中で、声を殺して肩を揺らす。
嘘だ。全部、都合のいい嘘だ。
王子がこの汚い部屋に乗り込んでくることもなければ、俺とエルナの間で『写真の共有』などという切ないやり取りが行われた事実すらない。
そもそも俺はエルナの騎士でも兵士でもなく、ただの市井の幼馴染に過ぎない。大聖堂の重厚な鉄の扉が閉ざされたあの日。あの瞬間、俺とエルナの関係は跡形もなく終わっていたのだから。
ーー静寂の中、不意に声が響いた。
誰もいないはずの部屋。己の心の奥底から、冷めきったもう一人の自分の声が鼓膜を揺らす。
「そう、この物語は全て道化師たるお前自身が描きあげたものだ。悪役となり、断罪され、追放される。全てお前が描いた空想に過ぎない。なぁ己よ、属性通りの配役を演じきって、これで本当に満足したか?」
俺は答えず、ただ薄く笑みを浮かべたまま万年筆の軸を撫でた。
「お前は『俺が最悪の悪役を演じて彼女を追い詰めてあげたからこそ、彼女はヒーローと出会い、幸せになれたんだ。彼女のハッピーエンドは、俺の演出のおかげ(必要悪)だ』と、自分の卑怯さや身勝手さを極限まで美化し、わが身の可愛さを守るためだけに、このおぞましい英雄譚を綴ったのだ」
内なる声は、容赦なく俺の臓物をえぐり出すように真実を突きつけてくる。
「お前はただ、自分の書いたシナリオの特等席で、彼女が自分のせいで傷つき、そして誰かに救われる姿を眺めて自己満足に浸りたかった。誰かから罰せられる事で救いを求めた。――オメデトウ、お前はこうして最初からの『悪役』になれたのだよ。
「……フ」
笑いが止まらない。
そうだ。俺はどこまでも浅ましく、身勝手で、己の可愛さのために「彼女を追い詰めた必要悪」という完璧な配役を作り上げたのだ。自分が悪役として裁かれるシナリオを書き上げることでしか、己の存在価値を保てなかった。
だが、内なる冷めた声は、さらにその「悪役の仮面」すらも容赦なく引き剥がしにかかる。
「――だがその悪役の姿でさえ、お前の幻想だろ?」
どこか底冷えのする声が、胸の奥で嘲笑う。
「『彼女が自分を思って嫌われようとしたから拒絶した』? ふざけるな。彼女はあの時から既にお前への興味はなくしていただろう。だからこそ遮断された。対の魔導書によって関係を繋ぎ続けていた気になっていたが、実際には彼女を傷つけることさえなかった」
胸の奥が、冷たい刃で突き刺されたように痛む。
「事実としてお前は最初から見限られていた。都合のいい夢を見たかったのだろう? お前と彼女との距離は何事もなく消えていった。存在しない悪役になって加害者のフリをする。……気持ちいいよな? 断罪されることで初めて許しが得られる」
『俺が光の道を進めば進むほど、彼女の影は深く深くなってしまう』
『だからこそ、俺が彼女の影を背負う悪役にならねばならなかったのだ』
――ハ。かつて自分が気取っていた、あまりにもおめでたい独白を思い出して失笑が漏れる。
光と影? 冗談ではない。
俺は最初から光などではなかったし、彼女を影に落とすほどの存在感すら持っていなかった。
彼女は俺という鬱陶しい影を振り払い、とっくに光の射す世界へ歩き出している。影の底に一人取り残され、存在もしない『光と影の対比』を一人で演じ続けていたのは……光との対比で沈むものは...他ならぬ俺自身だったのだ。
俺という男が身勝手な妄想に沈むほど、ただ俺自身の惨めな影が濃くなっていくだけだったのだから。
俺は机の上に置かれた一冊の古びた『対の魔導書』に視線を落とした。
本来なら二冊で一組となり、離れた場所の情景を映し出すはずの魔導書。だが、幼少期から使い続けられたこの道具は輝きを失っていた。魔導書の片翼はとうの昔に失われ、いまやこの誌面は、魔法の絵の具のように「対を失った空間」――つまり、これを覗き込む者の姿を冷酷に映し出す『客観の鏡』としてしか機能していなかった。
誌面を覗き込む。
そこに映し出されているのは、誰もが見惚れるような整った容姿の青年だ。透き通るような肌、涼しげな目元、整った鼻筋。客観的に見ても、俺の顔立ちは十分に『美しい物語の主人公』にふさわしい造形をしている。
だが――その整った皮肉な美貌の奥で、瞳だけが死んだ魚のように冷めきっていた。口元には、捏造した悲劇に酔いしれる、不気味で醜い笑みが張り付いている。外見がどれほど恵まれていようと、中身は加害者にすらなれなかった、ただの蚊帳の外の男。
「お前は物語によって己の存在意義を主張し、自ら罰せられた姿を見つめる事で断罪を、許しを得ようとした」
鏡の中の「冷めた俺」が、無言で、けれど明確にそう告げていた。
「どこまでいってもお前は自分がかわいくて、それを自覚してもなお貫き通すピエロなのだよ」
「……ああ。その通りだ」
俺は誌面に映る己の美しい顔を指先で撫で、愛おしそうに目を細めた。
そうさ。俺は加害者にすらなれなかった。彼女を傷つけることすらできず、ただ無価値に切り捨てられただけだ。
だからこそ、俺は自分を『悪役』に仕立て上げ、自らを罰することで許されようとした。
どこまでも自分が可愛くて、救いようのない、最悪のピエロ。
ならば――そのピエロとしての役を、最後まで完璧に演じきって何が悪い?
加害者のフリをし、悲劇の悪役として追放される物語を書き上げ、一人でその特等席に座って悦に入る。
この反省もせず、惨めさを自覚した上で美化し続ける狂気こそが俺の正体であり、俺が選んだ道化の生き様だ。
俺がクズで、哀れなピエロだというなら結構。ならば俺は、この身勝手さと道化の役を極限まで貫き、自らの手で書き上げたこの手記の中でだけは**「歴史に残る美しき悲劇の悪役」**として完成してやる。現実でエルナに無視され、存在すら消し飛んだことなど関係ない。
俺がこの紙の上で「悲劇の悪役」として自分を完結させ、彼女のために追放されたと信じきることができれば――俺の愛と存在は、俺の中でだけは「本物の物語」として永遠になるのだから。
「これで、配役はすべて埋まった」
俺は乾いたインクの万年筆を愛おしそうになぞり、深く息を吸い込んだ。
無視された屈辱も、エルナの冷たい無関心も、己の醜悪な身勝手さも……すべては最高の悲劇(物語)を紡ぐための極上のインクとなった。
俺は世界で一番身勝手で、最悪の道化師だ。けれど、この道化を完膚なまでに演じきったからこそ、俺は誰よりも美しく物語で己を散らせてみせた。
「……さようなら、エルナ」
誰もいない狭い自室で、俺は魔導書に映る冷めきった美貌の自分に向かって、優雅に、胸に手を当てて深々と一礼した。
「君のために最悪の悪役となって追放される俺を……どうか永遠に忘れないでおくれ」
拍手も歓声もない。
そうさ、俺は加害者にすらなれなかったピエロだ。この物語も、この追放劇も、すべては惨めな己を守るための自作自演に過ぎない。
――『自分のため』に書き上げた、身勝手極まる醜い虚構。だが、同時に――『君のため』であることも、また嘘偽りのない真実なのだ。
彼女のハッピーエンドのために悪役となり、己の可愛さのために悲劇の主役となる。
エゴと純愛が重なり合ったこの狂気こそが、俺が彼女に捧げられる唯一の愛。
拒絶されようと、無価値に切り捨てられようと関係ない。『君のため』であり、『自分のため』でもあるこの完璧な物語の中で、俺の愛は永遠に完成したのだから。
俺はゆっくりと身体を起こすと、いま書き終えたばかりの原稿を愛おしそうに指先でなぞった。
まだ乾ききっていない黒いインクが、灯油ランプの小さな炎を浴びて妖しく揺らめいている。
何一つ現実に起こっていない、俺だけの哀れで滑稽な一人芝居。
けれど、この紙の上にある文字だけが、俺の歪んだ魂の証明だった。
俺は机の上に置かれた、二度と繋がることのない『対の魔導書』へ静かに顔を寄せた。
誌面に映る自分自身の冷めた瞳とじっと視線を重ね合わせ、まるでそこに愛しい彼女が佇んでいるかのように、冷たい誌面へそっと優しく唇を寄せる。
「――でも、愛しているよ、エルナ」
閉じた瞼の裏で、暗闇に囁く。
「この心だけは……偽りのない真実なのだから」
甘く、優しく、そして救いようのない狂気を孕んだ囁きが、静まり返った部屋の中に小さく溶けていった。鏡の中の道化師は、完璧に演じきった己の物語に満足し、心の底から愛おしそうに笑っていた。
これで、ルシアン君の物語は終幕を迎えます。
最後まで物語を見届け、読み進めてくださり、本当にありがとうございました。誰しもどこかには隠し持つ醜さ、その一点を徹底的に解剖することがこの作品の芯となります。どこか皆さまの心に刺さる作品となれば幸いです。




