ここが好き
あれから数日が過ぎた。
白乃さんは、以前と変わらず喫茶店を開けていた。
初音さんも、スーパーの仕事を終えると喫茶店へ戻り、白乃さんの手伝いをしている。
ただ、少しだけ変わったことがある。
「初音ちゃん、そこのカップ取ってくれる?」
「はい」
「ありがとう」
初音さんが手渡したカップを受け取り、白乃さんがいつものように笑う。
その笑顔は、以前と変わらない。
けれど――。
ふとした瞬間に、窓の外を眺めていることが増えた。
その視線の先に、何を見ているのか。
僕には分からなかった。
きっと、初音さんには分かっているのだろう。
白乃さんが何も言わなくても、初音さんはいつもそばにいた。
必要以上に声をかけることもなく。
ただ、そこにいる。
それだけだった。
一方、白澤さんは管理局と喫茶店、そして診療所を行き来しながら、暁の状態を調べていた。
「今のところ、問題はない」
そう言いながらも、今日も白澤さんは暁を診ている。
身体の変化。
妖気の状態。
そして、あの子の中に残っている思念。
何か変化があれば、すぐに気づけるように。
それだけではない。
暁が現世に存在していることで、周囲の人外にどのような影響が出ているのか。
その影響が、少しずつ変化していないか。
白澤さんは、それも注意深く調べていた。
そんな白澤さんの姿を見ていると、あの日聞いた話が、まるで遠い出来事のようにも思えてくる。
けれど――。
暁が現世の人外に与えている影響。
白乃さんの旦那さんの魂に残された痕跡。
そして、その魂をこれ以上輪廻へ引き戻さないために、白乃さんが自分から彼に会わないことを選んだこと。
どれも、まだ終わってはいない。
そして暁は――。
「りょうじ」
「ん?」
「これ、なに?」
暁が、机の上に置かれた書類を指差した。
「それは書類だよ」
「しょるい?」
「そう。書類」
「なにが書いてあるの?」
「え?」
思わず暁を見る。
「これはね、人外のみんなが出す書類なんだ」
「じんがい?」
「妖怪とか、人ではない存在のことだよ」
「……あかつきも?」
「うーん……暁は少し特別かな。でも、局では人外の仲間として考えていいと思うよ」
「そっか」
暁は書類をしばらく眺めていた。
「じんがい以外もいる?」
「いるよ。人間や動物とか」
「にんげん?」
「そう。人間は人外とは違うけれど、同じようにこの街で暮らしているよ」
「……ちがう?」
暁は、少し考えるように首を傾げた。
「うん。できることも、できないことも違う。でも、嬉しいことや悲しいことがあるのは同じだよ」
「……うれしい。かなしい?」
聞き慣れない言葉を確かめるように、暁がゆっくりと繰り返す。
「そう。楽しい時もあれば、怖い時もある。誰かを好きになることもあるし、誰かを嫌いになることもある」
「……いや?」
「うん。嫌なことがあったら、怒ったり、悲しくなったりもする」
暁は黙った。
さっきまでなら、知らない言葉を聞けばすぐに真似をしていた。
けれど今は違う。
覚えた言葉を、自分の中で確かめるように考えている。
「……人間も?」
「もちろん。人間も人外も、そういう気持ちを持つのは同じだよ」
暁はもう一度、部屋の中を見回した。
局長。
サトリさん。
白澤さん。
そして、僕。
ここにいるみんなが、それぞれ違うものを持っている。
それでも、笑ったり、悲しんだり、誰かを心配したりする。
暁は、そんなことを一つずつ確かめるように、僕たちの顔を見つめていた。
「……みんな?」
「そう。人間も、人外もね」
暁はしばらく考えていた。
そして――。
「……みんな、いっしょ?」
局長が、少しだけ目を細める。
「うん。違うところはあっても、一緒に生きてるんだよ」
暁は、その言葉を聞いて小さく頷いた。
「……そっか」
それから、少し嬉しそうに笑う。
「……ここ、すき」
局長の手が止まった。
暁は、少し考えるように部屋の中を見回す。
そして、一人ずつ指を折るように数えた。
「せお。りょうじ。サトリ。はくたく……」
小さな指が、ゆっくり動いていく。
「みんないる。みんな、やさしいよ」
局長は、しばらく何も言わなかった。
やがて、暁の頭にそっと手を置く。
「……そうか」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「ここが好きなんだね」
「うん」
暁は嬉しそうに頷いた。
「ここ、あんしんする」
その言葉に、僕は少しだけ驚いた。
数日前まで、暁は言葉を覚えるだけだった。
けれど今は違う。
覚えた言葉で人を知り、自分の気持ちを伝えようとしている。
ただの思念だった存在が、少しずつ世界を知り、自分の居場所を見つけ始めていた。
けれど――。
僕たちがここで過ごせる時間には、終わりがある。
暁を隠り世へ送る日も、もう遠くない。




