暁の世界
ほんの少し前まで、名前すら持っていなかった。
それが今は、少しずつ言葉を覚えている。
誰かの名前を呼んで。
誰かの言葉を真似して。
自分の中にあるものを、少しずつ外へ出している。
僕は、そんな暁の姿をじっと見つめた。
「僕たちが教えたから、というだけじゃないんだろうね」
局長が、愛おしそうに暁を見つめる。
「この子自身が、知ろうとしているんだと思う」
「……知ろうとしている?」
「うん」
局長が頷いた。
「名前を覚えるだけじゃない。自分の周りに何があって、誰がいて、ここがどういう場所なのか。そういうことを、一つずつ確かめているんじゃないかな」
その横で、白澤さんが暁の前にしゃがみ込んだ。
「なら、私の名前も覚えてもらおう」
そう言って、暁の目をまっすぐ見つめる。
「はくたく、だ」
暁は、白澤さんの顔をじっと見つめた。
そして、少しだけ首を傾げる。
「……あく、たく」
「はくたく。だ」
「は、くたく」
今度は、少しだけそれらしく言えた。
白澤さんが、ほんの少し満足そうに頷く。
「そうだ。白澤だ」
「はくたく」
「……まあ、それでいい。合格だ」
「ふふ」
思わず笑うと、白澤さんがこちらを見る。
「何だ」
「いえ。白澤さん、嬉しそうだなと思って」
「別に嬉しくはない」
「そうですか?」
「ああ」
白澤さんはそう言いながら、もう一度暁を見る。
「……ただ、覚えが早いとは思っている」
暁は僕たちの顔を順番に見た。
「りょーじ」
「うん」
「せお」
「うん」
「あくたく」
「……私は白澤だ」
「はくたく」
「……まあいい」
局長が小さく笑った。
「サトリのことも覚えたんだよね」
「はい」
少し離れたところにいるサトリさんが頷く。
「昨日よりも、ずいぶん言葉が増えましたね」
暁はサトリさんを見る。
「……さとり」
「はい。サトリですよ」
サトリさんが穏やかに笑う。
けれど、暁はそこで少しだけ首を傾げた。
僕は、その理由を知っている。
サトリさんは、暁に近づくことができない。
だから暁も、サトリさんは少し離れたところから話しかけてくれる人なのだと、覚え始めているのかもしれない。
「……あれは?」
暁が、今度は部屋の隅を指差した。
「ん?」
僕が振り返る。
「時計だよ」
「……とけい」
「そう。時計」
「とけい」
暁は時計を見上げる。
しばらく眺めたあと、今度は机の上に置かれた本を指した。
「これは?」
「本だね」
「ほん」
「うん。本」
また一つ、暁の中に言葉が増えていく。
それを見ているうちに、僕はふと気づいた。
僕たちが教えているだけじゃない。
暁の方から、知ろうとしている。
ほんの少し前まで、形すら定まらない小さな思念だった。
けれど今は違う。
暁は、自分の目で見て。
自分の耳で聞いて。
自分の言葉で、それを確かめようとしている。
そして――。
暁は、ふと自分の胸元へ小さな手を当てた。
「……あかつき」
「うん?」
局長が顔を向ける。
「……あかつき?」
自分の名前を、確かめるように呟く。
「そうだよ」
局長は優しく答えた。
「君は、暁だ」
暁はしばらく黙っていた。
それから、局長を見上げる。
「……あかつき」
「うん」
「……ここ?」
局長の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「うん」
そして、静かに頷いた。
「ここにいるよ」
暁は局長の服を小さな手で掴んだ。
「……ここ」
「そう。ここだよ」
暁は安心したように、もう一度頷いた。
僕は、その様子を黙って見つめていた。
この子は、少しずつ「ここ」を知り始めている。
自分の名前を。
周りにいる人たちを。
そして、自分がいる場所を。
けれど――。
それが、この子にとってどれほど長く続く「ここ」なのか。
僕には、まだ分からなかった。




