静かな朝
一夜明けて。
本当なら、僕は真っ先に局へ向かうつもりだった。
昨夜、局長と暁がそのまま泊まることになったからだ。
暁の様子も気になるし、局長がちゃんと眠れたのかも気になっていた。
けれど――。
昨日の夜、局を出ようとしたところで、局長に呼び止められた。
「良治くん」
「はい?」
「明日は、白澤さんと一緒に白乃さんのところへ行ってくれるかな」
「……僕も、ですか?」
「うん。僕と暁のことは大丈夫だから」
そう言って、局長は腕の中の暁へ目を落とした。
暁はまだ眠っていたけれど、局長の服を小さな手でしっかりと握っている。
「白澤さんも、抱え込む癖があるから。それに、白乃さんのことも放っておけないしね」
「……分かりました」
「ありがとう。終わったら戻ってきてくれればいいよ」
局長はそう言って、いつものように穏やかに笑った。
だから僕は、後ろ髪を引かれる思いを抱えながらも、白澤さんと一緒に白乃さんの店へ向かうことになった。
――白乃さんの旦那さんの魂について。
昨日、白澤さんが口にした言葉が、ずっと頭に残っている。
何を伝えるのか。
どう伝えるのか。
そして――白乃さんが、それをどう受け止めるのか。
考えれば考えるほど、足取りが重くなる。
「……緊張してるのか?」
隣を歩いていた白澤さんが、前を向いたまま言った。
「え?」
「さっきから、ずいぶん静かだ」
「……そうですか?」
「ああ」
白澤さんはそれだけ言うと、口を閉ざした。
僕も言葉を返しそびれ、ただ足を進める。
しかし、ふと隣を見ると白澤さんは、一定の速度で黙々と歩いていた。いつもなら、何かしら皮肉の一つでも口にしそうなのに。
「……白澤さん」
「何だ」
「……いえ、その……なんでもありません」
僕は、言いかけた言葉を飲み込んだ。
白澤さんの足が、一瞬だけ止まった。
「……変な奴だな」
そう言いながら、白澤さんは前を向いた。
けれど、その横顔はどこか硬い。
僕は、それ以上は聞かなかった。
白澤さんの方が、ずっと長い時間、白乃さんと旦那さんのことを知っている。
だからこそ、今日話すことの重さも、僕なんかよりずっと分かっているのだろう。
やがて、見慣れた商店街の一角に、白乃さんの店が見えてきた。
夏には青々としていた庭の木々も、今は秋の色に染まり始めている。
庭を過ぎると、木の扉が見える。
扉の向こうから、かすかに食器の触れ合う音が聞こえている。
「……準備中みたいですね」
準備中の看板を目に、一度立ち止まる。
「そのようだな」
白澤さんが扉を開ける。
からん、と小さなベルが鳴った。
いつもと変わらない店だった。
コーヒーの香り。
窓から差し込む朝の光。
カウンターに並んだカップ。
それなのに――。
今日は、どこか空気が違って感じられた。
「あ、白澤さん、良治さん」
カウンターの向こうにいたのは、初音さんだった。
エプロン姿で、手には布巾を持っている。
「初音さん、おはようございます」
「おはようございます」
初音さんが笑う。
「白乃さんは今、一人で仕込みをしています」
その時、店の奥から白乃さんの声が飛んできた。
「初音ちゃん、そこの皿お願いー」
「はーい」
初音さんが返事をして、すぐに振り返る。
けれど——。
白澤さんの姿を見た瞬間、その表情がほんの少し変わった。
「……白澤さん?」
「ああ」
短く答えた白澤さんは、そのまま店の奥へ視線を向ける。
初音さんも、何も言わずに白澤さんを見つめていた。
その表情を見て、先日のことを思い出した。
白澤さんが、初音さんに話していたこと。
白乃さんの旦那さんの魂に何が起きているのか。
今日、白乃さんに何を伝えるのか。
そして――。
白澤さんが、初音さんに頼んだこと。
白乃さんがどんな反応をしても、そばにいてほしい、と。
だからこそ――。
いつも明るい初音さんの表情にも、ほんの少しだけ硬さがあった。
「……白乃さんを呼んできますね」
「ああ」
白澤さんが頷く。
初音さんは奥へ向かいかけて――ふと、足を止めた。
「白澤さん」
「何だ」
「……私、ここにいますから」
白澤さんが、初音さんを見る。
「分かっている」
「白乃さんが、もし……」
初音さんは一度言葉を飲み込んだ。
「……一人になりたそうだったら、そっとしておきます。でも、一人にしない方がいいと思ったら、私がそばにいます」
「ああ」
白澤さんは、それだけ答えた。
「頼む」
「はい」
初音さんは小さく頷き、今度こそ店の奥へ向かった。
その背中を見送りながら、僕は白澤さんを見る。




