語られる記憶
◇
瀬尾は一人になった部屋で、腕の中の暁を見つめていた。
窓の外には、夜の気配が広がっている。
しばらく、何も言わなかった。
けれど――。
「……暁」
小さく名前を呼ぶ。
眠っていたはずの暁が、わずかに瞼を動かした。
「起きてるのかい?」
返事はない。
それでも瀬尾は、静かに笑った。
「今日は……少し話をしようか」
暁を抱き直す。
「君が生まれる前の話だ」
その声は、いつもの穏やかなものだった。
けれど、その奥には千年前の記憶が静かに沈んでいる。
「僕が、まだ何も分かっていなかった頃の話」
暁の小さな手が、瀬尾の服を握った。
瀬尾は、その手を見つめる。
「朧という子がいたんだ」
その手を、そっと包む。
「君と、少し似ている子だった」
目を開けて、じっと瀬尾を見つめる暁。
何も答えない。
けれど、その指先がほんの少し動いた。
「……いや」
瀬尾は小さく笑った。
「似ているというより――」
言葉を探すように、しばらく黙る。
「君が、あの子から零れ落ちた想いなら……似ていて当然なのかもしれないね」
暁の顔を見つめる。
まだ幼い。
昨日より少し大きくなったとはいえ、瀬尾の腕の中にすっぽり収まってしまうほど小さい。
それなのに。
その奥には、千年前から残っているものがある。
「僕はね、あの頃……自分が正しいことをしたのか、分からなかったんだ」
瀬尾の声が、少しだけ遠くなる。
「朧を守りたいと思っていた。それだけは、本当だった」
窓の外へ目を向ける。
夜の闇の向こうに、遠い昔の景色が重なっていく。
「でも……守るっていうことが、相手のために何かを決めてあげることだと、どこかで思っていた」
暁の頬にかかった髪を、指先でそっと払う。
「だから、僕は朧を隠り世へ送った」
静かな部屋に、その言葉だけが落ちた。
「人の世にいれば、朧は苦しみ続ける。人の感情に触れるたびに、痛みを感じる。だったら――人のいない場所へ行けばいい」
瀬尾は、わずかに苦笑する。
「……今思えば、ずいぶん簡単な話にしてしまったんだよね」
暁の手を握る。
「朧がどう思っていたのか」
「何を望んでいたのか」
「本当に、それで幸せだったのか」
どれも、聞かなかった。
聞く前に、自分で答えを決めてしまった。
「君には……あの時と同じ送り方をしたくない」
瀬尾は暁を見る。
「君を隠り世へ送ることになる……」
それでも、と続ける。
「その前に、君が何を思っているのかを知りたい」
暁は、じっと瀬尾を見ている。
そして、小さな指がまた動いた。
瀬尾の服を、きゅっと握る。
「……うん」
瀬尾は、その手を見つめて静かに微笑んだ。
「だから、話そう」
「僕が知っていることを、全部話すよ」
「君がまだ言葉にできなくてもいい」
瀬尾は、暁の小さな手をそっと包んだ。
「ただ……君が何を思っているのか、少しでも知っておきたいんだ」
少しだけ間を置く。
「もしかしたら、君が自分の気持ちを言葉にできるようになる前に、隠り世へ送らなければならないかもしれない」
暁は、何も答えない。
「その時、僕は君と一緒には行けない」
静かな声だった。
「……それまでに、君のことを少しでも知っておきたい」
暁の指が、瀬尾の服をきゅっと握り直す。
瀬尾は、その小さな手を見つめた。
「……うん。それでいい」
しばらくして、瀬尾は小さく息を吐いた。
「じゃあ、最初から話そうか」
瀬尾は、しばらく暁を見つめていた。
何から話せばいいのか。
どこまで話していいのか。
ほんの少しだけ迷う。
やがて、瀬尾は小さく息を吐いた。
「……お茶でも飲もうか」
返事はない。
けれど、暁の瞼がわずかに動いた。
「眠くないんだね」
そう言って、瀬尾は小さく笑った。
暁を抱いたまま立ち上がり、部屋の隅に置いてあった急須へ手を伸ばす。
湯を沸かし、茶葉を入れる。
しばらくすると、ふわりと柔らかな香りが部屋に広がった。
瀬尾は自分の分を湯呑みに注ぐと、暁を膝の上に座らせた。
「君はまだ飲めないかな」
暁は湯呑みをじっと見つめている。
「……興味はあるみたいだね」
瀬尾は少しだけ笑い、湯呑みを遠ざけた。
「もう少し大きくなったら、一緒に飲めるのかな」
暁は答えなかった。
けれど、瀬尾の服を握っていた手が、ほんの少しだけ緩んだ。
瀬尾は湯呑みに口をつける。
温かい。
静かな夜だった。
こうして暁と二人でいると、不思議と昔のことを話したくなった。
「……君が生まれる前の話をしようか」
暁が顔を上げる。
「僕がまだ若かった頃だね」
瀬尾は少し考える。
「陰陽師としては、あまり出来がよくなかったんだよ」
暁はじっと瀬尾を見ている。
「今とは違って、この辺りにも妖がたくさんいた。人と妖が、今よりずっと近い場所で暮らしていてね」
瀬尾は湯呑みを手にしたまま、窓の外へ目を向ける。
「そんな中で、僕は朧という子と出会った」
その名前を口にした瞬間だった。
暁の指が、ぴくりと動いた。
「……」
瀬尾は、それに気づいた。
「お……ぼろ」
暁が、小さく呟く。
「知ってるのかい?」
暁は答えない。
ただ、瀬尾の顔をじっと見ている。
「そうか」
瀬尾は小さく笑った。
「君の中に、何か残っているのかもしれないね」
それから、ぽつぽつと話した。
朧と出会ったこと。
最初は人を怖がっていたこと。
人の感情を感じ取ってしまうせいで、他人の痛みまで自分のもののように感じてしまっていたこと。
それでも、朧は優しかったこと。
「……その頃の僕は、道成という名前でね」
その名前を口にすると、今度は暁の目が少しだけ大きくなった。
「……みち」
「ん?」
小さな声だった。
瀬尾は、息を止める。
「……みちなり」
まだ、うまく発音できていない。
けれど――。
「道成?」
瀬尾がその名を口にすると、暁はじっとこちらを見つめた。
そして、小さな手を伸ばす。
瀬尾の頬に、そっと触れた。
「……うん。僕だよ」
瀬尾は、しばらく何も言わなかった。
やがて、その手をそっと包む。
「……そうか」
胸の奥に、懐かしいものが込み上げてくる。
「君は、やっぱり何か覚えているのかもしれないね」
けれど、それ以上は尋ねなかった。
無理に思い出させる必要はない。
瀬尾は湯呑みを置いた。
暁は黙って瀬尾を見ている。
「少しずつでいいよ」
そう言って、瀬尾は暁を抱き直した。
「……ただ」
窓の外へ目を向ける。
「朧との最後の夜のことだけは、君に話しておきたい」
暁の小さな手が、再び瀬尾の服を握った。
瀬尾は、その手を見つめる。
「明日、朧を隠り世へ送ることが決まっていた夜の話だ」
けれど――。
暁の手は、まだ瀬尾の頬に触れていた。
その温もりに触れていると、忘れたことなど一度もなかったはずの夜が、昨日のことのように蘇ってくる。
「……あの夜も」
瀬尾は、暁の手をそっと包んだ。
「こんなふうに、隣に座っていたんだ」
そして――。
千年前の夜へ、静かに記憶を戻していった。




