境界線に灯る光
――カチ、と手元で小さな音がして、僕は我に返った。
視線を落とすと、いつの間にか自分の手には、お気に入りの万年筆が握られていた。
目の前には、サトリさんが淹れてくれた冷たいコーヒーのグラス。溶けかけた氷が、カランと小さな音を立てる。
その音に引き戻されるように、遠い記憶の中に沈んでいた意識が、ゆっくりと現在へ浮かび上がってくる。
再び目に映ったのは、見慣れた管理局の相談室の景色だった。
向かい側の席では、初音さんが膝の上で固く握りしめていた指先を、ゆっくりと緩めていくところだった。
彼女の澄んだ瞳が、まっすぐに僕を見つめている。
そこに宿っていたのは、憐れみや同情ではなかった。深い共感と、どこか親愛の情にも似た温かな眼差しだった。
「白乃さん、余計なことまで話してしまったみたいですね」
僕は少し気まずそうに首をすくめ、苦笑を浮かべながら呟いた。
「すみません、驚かせてしまって。……そうなんです。僕も、あなたと同じように居場所がなくて、山に籠もっていた時期がありました」
彼女は小さく首を振った。
「いいえ、驚いたのではなくて……」
そこで一度言葉を止め、初音さんは穏やかに微笑んだ。
「ただ、少しだけ嬉しかったのです」
「嬉しい、ですか?」
「はい」
彼女は愛おしそうに冷たいグラスへ指先を添えながら、ぽつりぽつりと、けれど確かな声で言葉を紡いでいく。
「現世へ降りてきてから、目に映るものすべてが新しくて……どこか遠い世界の出来事のように感じていました。皆さんが親切にしてくださるたび、ありがたいと思う一方で、どこか申し訳なさや寂しさもあったのです」
初音さんは、少しだけ視線を落とした。
「……私だけが、この世界で浮いているような。そんな気がしていました」
その言葉が、かつての自分の姿と重なる。
胸の奥に、あの日々の痛みが静かによみがえった。
「けれど、槇尾さんのお話を伺って……私と同じように、境界線で立ち尽くし、迷いながらも、ここで自分の居場所を見つけた方が目の前にいてくださる。それが、今の私にとって、どれほど心強い灯火になるか分かりません」
初音さんは顔を上げ、今度ははっきりと、僕の目を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
「私が選んだ『雪原初音』という名前を、槇尾さんが『お似合いだ』と言ってくださったとき、本当に救われた気持ちになりました。……私を、ひとりの存在として、この世界に迎えてもらえたような気がしたのです」
その言葉は、かつて僕が瀬尾局長からもらった救いを、今度は僕が彼女へ手渡すことができたのだと教えてくれた。
僕が歩んできた、あの孤独で曖昧だった道のりは、決して無駄ではなかった。
この場所で、彼女のような誰かの心に寄り添うための、大切な足跡だったのだ。
「……ありがとうございます」
僕は一度だけ息を整え、それから新しく決まった彼女の名前を、心を込めて呼んだ。
「雪原初音さん」
「僕たちの局は、あなたが迷子にならないための『第二の故郷』です。ここから始まるあなたの現世での暮らしが、温かいもので満たされるよう、僕はこれからも全力でお手伝いします」
そして、改めて言葉を届ける。
「――人間の世界へようこそ」
僕が差し出した右手を、彼女は少しだけ躊躇ったあと、そっと包み込むように握り返してきた。
触れ合ったその手のひらは、やはり雪女らしくひんやりと冷たかったけれど、その奥からは、これから新しい世界を生きていこうとする、何よりも確かな熱がしっかりと伝わってきた。
窓の外から差し込む初夏の柔らかな光が、僕たちのいる相談室を静かに照らしていた。




