人と妖怪の狭間で
──僕は、半妖として生まれた。
母は僕を生んですぐに亡くなり、人間である祖母が、その細い腕で僕を育ててくれた。
祖母は、僕が人間の世界で生きていけるよう、人として接し、人として生きる術を厳しく、そして優しく教えてくれた。
それでも、身体に流れる妖怪の血までは隠し通せない。
幼い頃、僕の内に眠る『天狗の力』が突然暴走し、同級生を傷つけてしまったことがある。
悪気なんて、これっぽっちもなかった。ただ、感情の制御が利かなかっただけだ。
けれど、その日を境に、僕は人間の輪から外れてしまった。
祖母が生きている間は、二人で世界の片隅に身を潜めるように、静かな日々を過ごした。最後まで祖母は、僕を歪ませないよう、ただ一人の愛すべき孫として大切に育ててくれた。
そして祖母を失った時、僕は本当の意味で、この世界に独りきりになった。
行くあてもなく、人と関わる恐怖から逃げるように、僕は深い山へ籠もった。
誰とも接することなく、ただ命をつなぐだけの日々。
気づけば、月日は音もなく過ぎ去っていた。
人と妖怪とでは、時の流れ方さえ違うのかもしれない。
そんなふうに諦めかけていたある日、僕はその山で、一人の人外と出会った。
木漏れ日の向こうに立つその人は、青年にも、あるいは可憐な少女にも見えた。
肩まで伸びた淡い緑がかった黒髪が風に揺れ、淡い水色の衣は木漏れ日を受けて、柔らかな光をまとっている。
その琥珀色の瞳は、幾星霜を生きた大樹のように深く、静かな輝きを宿していた。
その姿を目にした瞬間、僕は直感的に悟った。
この人は、人間でも、妖怪でもない。
この山そのものに宿る存在――神なのだと。
――神の一柱、こだま。
「君は人のようで……いや、人ではない何かも混じっているね」
その声は風に乗るように、凍りついていた僕の心を優しく包み込んだ。
こだまは、出会ったその瞬間に、僕の曖昧な正体を見抜いていたのだ。
森に生きるすべての命を見守る優しき神は、迷い込んできた僕のことも、放っておけなかったのだろう。
「君は人外として、この山で一人で生きる道を選んでもいい。けれど、もしもいつか人と共に生きたいと願うのなら、人としての営みまで捨ててはいけないよ」
こだまは普段、人の姿を借り、ときおり気まぐれに人の世へ降りていた。
そして戻ってくるたび、僕へ人の世の移り変わりや、人々のささやかな暮らしについて語ってくれた。
そんな穏やかな日々に救われながら、僕の中には「もう一度、人の世界へ足を踏み入れてもいいのかもしれない」という小さな芽が、少しずつ育っていった。
しかし、長い月日が過ぎ去った街は、僕の知る景色とはとうに様変わりしていた。
怯える僕の迷いを見透かしたように、ある日、こだまは一人の人物の名を口にした。
「瀬尾くんという子がいてね。人間でありながら人外となってしまった――いわば『元人』と呼ばれる存在なんだ。今の世を生きる人外のために、『人外適応管理局』という場所を預かっているそうだよ。君も一度、会ってみるといい。君のその曖昧な在り方も、彼ならきっと力になってくれる」
そっと風が揺れ、木々の葉が僕を励ますようにざわめいた。
どちらの世界にも属せない。
僕の身体には、父である鞍馬天狗の血が流れていた。
けれど、僕は父の顔を知らない。
幼い頃、祖母から聞かされた話では、父は僕を天狗の子として迎え入れることはなかったという。
天狗の里へ足を踏み入れることすら許さず、「この子は人として育ててほしい」とだけ祖母に言い残し、背を向けて里へ帰っていったそうだ。
その理由はわからない。
父が僕を拒絶したのか。それとも、異形の血を持つ僕を守ろうとしたのか。
祖母も、そのことだけは最後まで語ろうとはしなかった。
ただ一つ確かなのは、僕には人間の世にも、妖怪の世界にも、帰る場所などどこにもなかったということだ。
それからしばらくして、不意に森の空気が震えた。
山道をゆっくりと登ってきたのは、二十代にも、四十代にも見える、不思議な雰囲気をまとった男だった。
黒髪を短く整え、ラフなジャケットにシャツという気取らない服装。街ですれ違えば、どこにでもいる平凡な会社員にしか見えない。
けれど、森はその人を拒まなかった。
木々は静かに葉を揺らして道を空け、鳥たちも逃げることなく枝に留まり、歌声を響かせている。
森そのものが、彼を歓迎しているようだった。
人間にしか見えない。
けれど、その纏う空気は、人とも妖怪とも違っていた。
そう確信させたのは、姿ではなく、その圧倒的な佇まいだった。
人とも妖怪とも言い切れない。どこか曖昧でありながら、それでいて深い静けさを湛えた存在。
それが、瀬尾という人だった。
「いい森だね」
まだ姿を現していなかった僕の隠れ家へ向けて、彼は正確に声を投げかけてきた。
僕は観念し、木陰から彼の前へ姿を現した。
「はじめまして。僕は瀬尾克己。こだま様から話は聞いているかな?」
わずかな警戒を残したまま、僕は静かに頷いた。
「僕はね、長く生きる人外なんだ。元は人間として生まれ、今は人外と呼ばれる存在になった。君のこれからについて、こだま様から相談されてね」
ふと木々の向こうへ目を向けると、こだまが静かに微笑みながら、僕たちの対話を見守っていた。
瀬尾さんのどこまでも穏やかな声に、僕の頑なだった警戒心は、雪解け水のように少しずつほどけていく。
「……僕は、人の世から長く離れすぎました。今さら人として器用に生きられない。だからといって、完全な妖怪にもなれない。そんな曖昧な僕を、受け入れてくれる場所なんて、この世界のどこかにあるのでしょうか」
胸の奥底に硬く鍵をかけて閉じ込めていた痛みが、気づけば言葉となって溢れ出していた。
瀬尾さんは小さく微笑み、僕の痛みをすべて受け止めるような声で告げた。
「君がどちらで生きると決めても、僕はその選択を尊重するし、できる限り力になりたいと思っている」
そこで一度言葉を切り、瀬尾さんはさらに柔らかく目を細めた。
「でもね、人は何でも白黒つけたがる。……僕は、どちらかを選ばなくてもいいと思うんだ」
『選ばなくていい』
その一言が耳に届いた瞬間、僕の全身の強張りが、温かな光に包まれるようにほどけていった。
「君が人でも妖怪でもないのなら、それが『君』という唯一の存在なんだよ。無理にどちらかへ自分を合わせる必要なんてない。そのままの君で生きられる場所を、一緒に探そう。――そのために、僕は『人外適応管理局』を作ったんだから」
その言葉を聞き終えた時には、目から大粒の涙が頬を伝っていた。
涙を流すなんて、いつ以来だろう。
長い間、ずっと、世界中の誰かにそう言ってもらうのを待っていたかのように、涙は止めどなく溢れ、視界を濡らしていった。
瀬尾さんはゆっくりと僕のそばへ近づき、大きな、けれど少しひんやりとした優しい手で、僕の肩にそっと触れた。
「すぐに答えを出さなくてもいい。もし選んだ答えが、その後違うものだと気づいても、何度でもやり直せる。いろんな道を歩めることが、生きるということだと僕は思うよ」
押し付けるわけではなく、ただ僕のこれからの人生を肯定してくれるような、凪いだ海のように穏やかな声だった。
「今日はひとまず、帰ることにするよ。またね、良治くん」
そう言って、瀬尾さんは僕の肩を最後にもう一度だけ優しく叩き、ゆっくりと踵を返した。
木々の間から差し込む光の向こうへ、その背中が少しずつ遠ざかっていく。
こだまもまた、僕を包み込むような温かな微風を残し、静かにその気配を森の中へ溶け込ませていった。
独り残された森の中で、僕は何度も、何度も、瀬尾さんの言葉を心の中で反芻した。
『選ばなくていい』
『何度でもやり直せる』
白か黒か。人か妖怪か。
そのどちらかに自分を当てはめなければ生きていけないと思い込んでいた僕にとって、その言葉は暗闇に差し込んだ一筋の光だった。
決して大きな光ではない。
けれど、長い間、独りで凍えていた僕には、何よりも眩しく、確かな温もりを持つ光だった。
張り詰めていた心の氷が、ゆっくりと融けていくような感覚の中で、僕は決意した。
もう一度だけ、あの眩しい世界へ。
人の世へ歩き出してみよう。
瀬尾さんという人が作った、『人外適応管理局』という場所を目指して――。
その夜。
深い静寂に包まれた森の中で、僕の決意を感じ取ったかのように、こだまが姿を現した。
木漏れ日のような淡い光をまといながら、その琥珀色の瞳が優しく僕を見つめている。
ざわざわと穏やかに揺れる木の葉の音に背中を押されるように、僕はまっすぐ言葉を紡いだ。
「僕、瀬尾さんのところへ行ってみようと思います。もう一度、人の世で生きてみたい」
こだまは、すべてを見通しているかのような優しい微笑みを浮かべた。
そして、そっと僕の頭を撫でるように、柔らかな風を揺らす。
「うん。それでいい。もし、何かあったらいつでもここへ帰っておいで。わたしは――ずっとここにいるからね」
それは、優しかった祖母のようでもあり、会ったことのない母や父のようでもある、あまりにも温かく、深い眼差しだった。
この広い世界のどこにも居場所などないと思っていた。
けれど、いつでも帰ることのできる、決して変わらない故郷がここにある。
その事実が、僕の背中を強く、強く押してくれた。




