雪解けの、その先へ
局へ戻ると、瀬尾局長がコーヒーを片手に、先ほど渡した資料へ目を通していた。
「良治くん、おかえり」
局長は書類から目を離さないまま、こちらへ声をかけてきた。
「雪原さんは無事に白乃さんのところへ?」
「はい。白乃さんに任せれば安心です」
そう答えると、自分でも肩の力が抜けていくのを感じた。
瀬尾局長もほっとしたように笑みを浮かべた。
「良治くんも、少しは自信がついたかな? 妖怪と人間、どちらの性質も持つ良治くんだからこそ、できることがたくさんあると思うよ」
僕はこれまでの人生を静かに振り返りながら、「はい」と短く答えた。
——それから二週間あまりが過ぎ、無事に初音さんの戸籍と能力使用許可証が発行された。
その間、彼女は白乃さんの店を手伝いながら、河野さんと交流を深めたり、時折局に顔を出したりと、人間社会へ溶け込もうと日々奮闘していた。
再び局を訪れた初音さんは、以前の不安げな姿とは打って変わり、軽快な足取りを見せていた。
「こんにちは。今日はお越しいただきありがとうございます。現世での暮らしはいかがですか?」
僕の問いかけに、初音さんはにこやかに笑みを返し、これまでの成果を話してくれた。
「勉強の日々です。最初は買い物ひとつ満足にできませんでしたが、今ではちょっとしたお使いなら、一人でできるようになりました。あと……やっぱり、スーパーマーケットというのは素晴らしい場所ですね。暑い日でも中がひんやりとしていて、とても居心地が良いのです」
彼女がそう言ってはにかんだ瞬間、トレイに載せられたガラスのグラスが、カランと涼やかな音を立てた。
「はい、お待たせ。アイスコーヒーですよ。……実は私も、初音さんと一緒にそのスーパーへ買い物に行ったんですよ」
絶妙なタイミングで淹れたてのコーヒーを運んできたサトリさんが、楽しそうに目を細めながら会話に加わった。
聞けば、二人で街へ出かけたのだという。今日彼女が着ている淡い色のワンピースも、その時に選んだものなのだと、嬉しそうに教えてくれた。
「とてもお似合いですね。人間の世界にも少しずつ慣れてこられたようで、僕も安心しました」
そう言うと、彼女は少し照れたように、はにかんだ笑みを浮かべた。
僕は気持ちを引き締めるようにクリアファイルから書類を取り出し、初音さんから見えやすいよう机の上へ差し出した。
「それでは、これからのお話をしましょうか」
『能力使用許可証』――そこには、先日申告してもらった彼女の能力について、現世で使用が認められる範囲と、制限される項目が明記されていた。
「今回許可された能力は、『半径一メートル以内の範囲における、零下十度までの温度操作』です。普段の生活やお仕事で使用する分には十分な範囲ですが、それを超える広範囲での能力行使、あるいは過度な冷却は、周囲への影響が大きいため制限対象となります。また、制限対象外の能力行使については、局長権限による個別許可制となっていますので、ご注意ください」
初音さんは許可証を両手で受け取り、まるで壊れものを扱うように大切そうに見つめた。指先でそっと文字をなぞった。
「……私にも、使っていい力があるのですね」
ほっとしたように、どこか救われたような面持ちで微笑む初音さんを見て、僕も胸の奥につかえていたものがすっと下りるのを感じた。
「ええ。許可が出ましたから、これからはご自身を冷やす程度であれば、使っていただいて大丈夫です。ルールを気にするあまり、無理をして熱中症で倒れてしまっては意味がありませんからね。困った時は、ご自身のためにも、その力を使ってください。」
以前、あの茹だるような暑さに耐えながらも、「許可が下りるまでは絶対に力は使わない」と決めていた彼女の姿が脳裏によみがえる。その実直さを知っているからこそ、僕は心からそう伝えた。
「次に、これからの住居や、お仕事についてですが……こちらの世界で実際に過ごしてみて、何か見えてきた希望はありますか?」
戸籍や許可証が届いたことは、ゴールではない。ここからが、雪原初音としての新しい人生の始まりなのだ。
「はい。白乃さんともたくさんお話しし、河野さんにもいろいろと相談に乗っていただきました。住居については、私が現世で安定した収入を得られるようになるまで、これまでどおり白乃さんのお家でお世話になることになりました」
面倒見のいい白乃さんのことだ。きっとそう言ってくれるだろうとは思っていた。それでも、その包み込むような優しさに改めて触れ、僕は安堵の息を漏らす。
「お仕事のほうはいかがですか? これからも白乃さんのお店を専業で手伝われるのでしょうか?」
「はい、お店のお手伝いはもちろん続けさせていただきます。ただ、それだけではなく……河野さんからご提案をいただきまして、彼のご友人である仙狐様が経営されているスーパーマーケットでも働かせていただくことになりました」
彼女は弾むような笑みを浮かべ、嬉しそうに言葉を続けた。
「私の持つ冷却の力を活かして、バックヤードで食品の品質管理を担当させていただくのです」
自分で考え、自分の足で進む道を見つけ、その未来を嬉しそうに語る初音さんの姿が、僕には眩しく映った。
僕は胸がいっぱいになり、思わず目を細める。
「就職先が決まって、本当に良かったですね。……実は、僕も半妖なんです。だから、この管理局に就職が決まるまでは、人間の世界にも人外の世界にも馴染めず、なかなか自分の居場所を見つけられませんでした」
自分の過去を口にするのは少しだけ照れくさく、思わず苦笑いが漏れる。
「だからこそ、見知らぬ現世へ飛び込み、自分の居場所を見つけようとしている雪原さんを、本当に尊敬しています」
一瞬、はっとしたように初音さんの表情が揺らいだ。彼女はそっと視線を落とし、膝の上で白い指先をぎゅっと握りしめる。
それから、静かに、確かめるような声で口を開いた。
「槇尾さんのお話……ご本人のいないところで耳にするのは申し訳ないと思ったのですが、白乃さんから、少しだけ聞かせていただきました」
その言葉に、僕は小さく息をのんだ。
白乃さんは、僕の何を話したのだろう。
半妖として生きてきたことか。
それとも、人にも人外にも居場所を見つけられず、ただ足掻いていた頃の僕のことか。
それを聞いた彼女が、今の僕をどんな目で見ているのか。
気にならないと言えば、それはあまりにも嘘になる。動揺を悟られまいと視線を手元へ落とすと、胸の奥にしまい込んでいた記憶が、静かに降り積もる雪のようによみがえってきた。




