居場所
一歩外へ踏み出した瞬間、ひんやりとした管理局の空気とは異なる、六月の生ぬるい風が僕たちの肌を撫でた。
先ほどまでの雷鳴が嘘のように、雲の切れ間からは早くも夏を予感させる力強い太陽が顔を覗かせ、濡れたアスファルトを眩しく照らしている。
「……っ」
初音さんは眩しそうに細い手を額にかざし、小さく息を呑んだ。
「雪原さん、大丈夫ですか?」
僕が慌てて声をかけると、彼女は眩しさに目を細めたまま、小さく頷いた。
ここは京都ではあるものの、観光地の喧騒とは一線を画した、静かな一角にある。人目に触れてはならない者たちが人知れず訪れる場所だからこそ、あえて目立たない立地に局を構えているのだ。
とはいえ、やはりここは京都の夏だった。いくら静かな場所でも、アスファルトから立ち上る熱気と六月特有の蒸し暑さは、容赦なく肌にまとわりついてくる。ましてや、長い間、雪深い山奥で暮らしてきた雪女の彼女にとっては、この上ない酷暑に感じられるに違いない。
「少し、空気が重たいのですね……。それに、お日様がとても近くて、強いです」
初音さんは額に薄っすらと浮かんだ汗を拭うような仕草をしながら、どこか圧倒されたように呟いた。
「雪女さんにとっては、この時期でもきつい暑さですよね。さあ、あそこに停めてある僕の車へ行きましょう。中はすぐに涼しくしますから」
僕は駐車場にある使い込まれたセダンを指さし、彼女の歩調に合わせるようにゆっくりと歩き出した。
助手席のドアを開けて彼女を迎え入れ、僕も運転席へと乗り込む。ドアを閉めると、外の熱気をため込んだ車内が地獄のように感じた。
急いでキーを回してエンジンをかけると同時に、僕はエアコンのスイッチを入れ、風量を最大に設定する。吹き出し口から勢いよく吹き出した冷たい風が、またたく間に車内の熱を追い払っていく。
「ふう……っ」
隣の席から、心底生き返ったような深いため息が漏れた。
見れば、先ほどまで現世の暑さに圧倒されていた初音さんは、シートに深く背を預け、冷風を全身に浴びながらうっとりと目を細めている。
「本当は、自分の能力を使って身の回りを冷やすこともできるんです。けれど、先ほど説明していただいたルールがありますから……。まだ許可が下りていない以上、使用は控えた方がいいと思いまして」
少しきまり悪そうに、けれど真っ直ぐな目でそう告げる彼女を見て、僕はなんて真面目な人なのだろうと胸を打たれた。山を下り、見知らぬ世界に一人で飛び込んできたというのに、彼女は誰よりもこちらの規律を尊重しようとしてくれている。
「そうですね。ルールを正しく守ろうとしてくれるのは、僕としても本当にありがたいですし、大切なことです」
僕は前を向いたまま、ハンドルを握る手に少しだけ力を込めて言葉を続けた。
「けれど、自分の身に危険が及びそうな時は、どうか無理をしないでください。他人に危害を加えない範囲であれば、自分を守るために力を使うのはちっとも悪いことではありませんから」
僕の言葉が意外だったのか、初音さんは驚いたように少しだけ目を見張った。それから、肩の力がすっと抜けたような穏やかな笑みを浮かべる。
「自分を守るため、ですか。……はい。ありがとうございます、槇尾さん」
冷風に包まれてうっとりとしている彼女の横顔を確認し、僕は「少しは楽になりましたか?」と問いかけた。
「はい、とても……。人間の作る冷気というのは、これほどまでに強くて心地よいものなのですね。まるで故郷の冬の風のようです」
初音さんは物珍しそうに、ダッシュボードやエアコンのルーバーを見つめている。
「気に入っていただけてよかったです。――それでは、出発しますね」
僕はシフトレバーをドライブに入れ、サイドブレーキを解除した。使い込まれたセダンは静かに滑り出し、管理局の駐車場を後にして、目的の場所へと走り始めた。
後見人である白乃さんの店までは、ここから車で十分ほどの距離だった。
僕は窓の外を流れる現世の景色を時折紹介しながら、静かに車を走らせる。
やがて到着した店は、住宅街の片隅にひっそりと佇んでいた。
入口へ続くアプローチは、小さな森のようになっている。『人外適応管理局』とはまた違う形で、人ならざる客の姿を優しく隠してくれる空間だった。
とはいえ、人外専用というわけではない。地域との繋がりも大切にしているらしく、普段は近所の人々もよく訪れるのだという。
「とても緑豊かな場所ですね」
彼女は、あちらこちらに咲く花々や草木へ視線を巡らせ、感嘆したように小さく息を漏らした。
「私の暮らしていた冬山とは違いますが……やはり、自然のある場所は落ち着きます」
穏やかな声を聞きながら小道を進むと、古民家を改装した、小ぶりな洋館風の建物が見えてきた。
入口に掲げられた『準備中』の看板を横目に、玄関へ向かう。そこには、風情ある木製の引き戸があった。リフォームによって現代的に生まれ変わりながらも、古き良き雰囲気を残している。
その引き戸に手をかけようとした瞬間、内側からするりと扉が開いた。
中から現れたのは、白髪の五十代ほどに見える上品な女性だった。切れ長の目にすらりとした長身、白磁のような肌をしている。
「あら、いらっしゃい」
少し鋭さを感じさせる目元だが、目尻を下げて微笑むと、とても優しそうな表情になる。その声には独特の温かみがあり、不思議な安心感を覚えさせた。
「白乃さん、お疲れ様です。この度は後見人の引き受け、ありがとうございました。――こちらが、本日手続きを終えた雪女の雪原初音さんです」
僕は初音さんへ掌を向け、緊張をほぐすように柔らかく紹介した。
「二人とも、お疲れ様。良治くんも、暑い中よく送り届けてくれたわね」
白乃さんは僕にそう声をかけると、今度は一歩後ろで身を硬くしている初音さんへと視線を移した。その切れ長の目が、慈しむように細められる。
「あなたが初音さんね。遠い山奥から、よく勇気を出してここまで来てくれたわ。さあ、外は酷い暑さでしょう。中に入って頂戴。冷たい飲み物でも用意するから」
白乃さんに促されるように、僕たちは扉をくぐり中へと入った。
短い廊下を抜けた先には、十二畳ほどのどこかホッとする店内が広がっていた。
カウンターとテーブルが数席置かれたこじんまりとした空間は、床の段差がまったくない完全なバリアフリー仕様になっている。内装はシックな洋風をベースにしながらも、壁の一部に柔らかな光を通す障子が組み込まれていたり、天井から和紙のランタンが吊り下げられていたりと、和と洋が見事に織り交ぜられた温かい空間だった。
白乃さんからカウンター席に促され、僕はエアコンの風が届きやすい席へ初音さんを座らせた。
「白乃さん、いつ来ても本当にすてきな店内ですね」
カウンターの中で、手際よく飲み物の準備をする白乃さんへ、僕はしみじみと声をかけた。
「良治くん、ありがとう」
白乃さんは嬉しそうに目を細め、愛おしそうに店内を見渡した。
「私は和が好きだけど、あの人は洋が好きだったから、全部まぜっこにしたのよ。このお店はね、亡くなった主人のために作ったお店だから」
「……旦那様の、ですか」
隣で静かに耳を傾けていた初音さんが、小さく、どこか心震わせるように呟いた。
「そうなの」
白乃さんは優しく頷く。
「車椅子のあの人でも仕事がしやすいように、席の間隔も広げているし、カウンターの中もあえて一段高くしているのよ。――今じゃ私には、少し使いにくくなってしまったけれどね」
悪戯っぽく笑う白乃さんだったが、その横顔には、今も変わらない旦那様への想いが、静かに滲んでいるように見えた。
雪深い山で孤独に生きてきた彼女にとって、「大切な人のために作られた場所」の持つ体温は、何よりも眩しく、そして心に染み渡るものだったに違いない。
「とても、優しい空間ですね。私も……いつか、自分のそういう場所を作っていきたいです」
初音さんはそう言って、小さく、けれど確かな光を宿した瞳で微笑んだ。
氷の入ったグラスに、冷たいコーヒーが注がれる。木製のコースターがそっと置かれ、白乃さんが僕と初音さんの前へとそれらを差し出してくれた。
「コーヒーは大丈夫かしら?」
初音さんは初めて見る黒い液体に目を丸くする。
「飲んだことがないのでわかりませんが……郷に入れば郷に従え、ですね。飲んでみます」
決死の覚悟といった様子でグラスを両手で包み込む彼女の姿に、白乃さんが「ふふ、そんなに緊張しなくて大丈夫よ。もし苦みが強かったら……」とミルクとシロップを差し出した。
どうやら僕がハラハラと見守る必要はなさそうだ。
僕も差し出されたコーヒーを飲みながら、今後のことを話し始めた。
「白乃さん、雪原さんの申請書類は今日郵送しますので、許可が下りるまでには二週間ほどかかります。その間、彼女に現世のことをいろいろと教えてあげてください」
白乃さんは頷く代わりにゆっくりと瞬きをした。
「まずは、現世に慣れてもらうためにお店の手伝いをしてもらおうかしら。人も人外もいらっしゃるし、買い出しも一緒に行けばすぐに日常生活に慣れるわ」
これまでに何人かの後見人をしてきた白乃さんに任せれば安心だ。僕は最後のコーヒーを飲み干し、席を立ち上がった。
「それじゃあ雪原さん、僕はこれで失礼しますね。白乃さん、あとはよろしくお願いします」
そう声をかけると、初音さんはハッとしたようにこちらを見上げ、それから名残惜しそうに、けれど深く頷いた。
「はい。槇尾さん、今日は本当にありがとうございました」
初音さんはこれから現世でたくさんの出来事に触れ、生活をしていく。辛いことや、挫けそうになることもあるかもしれない。けれど、一人ではないと知っていれば、きっと乗り越えていける。
僕自身もまた、そうして誰かに支えられてここまで来たのだから――。
カウンターの奥から「はーい、気をつけてね」と手を振る白乃さんにペコリと一礼し、僕はカフェを後にした。
カランコロン、と小気味いいドアベルの音を背中で聞きながら歩き出す。これで彼女も一安心だ――そう思うと、局へ戻る僕の足取りも、どこか軽くなっているのを感じた。




