一緒に過ごす時間
局長が、ふっと息を吐いた。
「……とりあえず、お腹が空いた人はいないかな」
「え?」
サトリさんが、少しだけ目を丸くする。
「そういえば、朝から何も食べていなかったんだ」
局長が困ったように笑う。
「それは大変です」
サトリさんは穏やかな顔で笑い返す。
「だろう?」
「局長……暁のことばっかりで、自分のこと忘れてたんですか?」
「……否定はしないよ」
「もう」
思わず笑ってしまった。
さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけほどけていく。
その間、暁は局長の腕の中で静かにしていた。
けれど――。
小さな手は、まだ局長の服を離していなかった。
そんな暁を抱いたまま、僕たちは簡単な朝食を取ることになった。
局長は暁を抱いたまま席につき、サトリさんが用意してくれたパンとスープを前にして、ようやく自分の空腹を思い出したようだった。
「局長、片手で食べられます?」
「たぶん大丈夫だよ」
「たぶんって……」
僕が呆れていると、サトリさんが小さく笑った。
僕はそんな二人を見ながら、暁へ手を伸ばした。
「でしたら、僕が暁を抱きましょうか?」
「……それは」
局長は腕の中を見下ろした。
暁はまだ目を閉じている。
けれど、局長の服を握った小さな手は、離れる気配がなかった。
「……もう少し、このままでいいかな」
僕は小さく笑って、伸ばしていた手を引っ込めた。
サトリさんも、そんな僕たちを見て穏やかに微笑んでいた。
昨日まで、ただそこに存在しているだけだった小さな思念。
それが今は、局長の腕の中で眠り、服を握り、少しずつ言葉らしきものまで使い始めている。
ほんの一晩で、こんなにも変わるものなのだろうか。
そんなことを考えていると――。
「……ん」
暁が小さく身じろぎした。
局長の胸元から顔を上げる。
まだ眠そうな目が、ゆっくりと部屋の中を見回した。
僕。
サトリさん。
そして、テーブルの上に並んだ食事。
暁の視線が、そこで止まった。
「……」
「……もしかして」
僕が言うと、局長も暁の視線を追った。
「お腹が空いたのかな?」
「……分かるんですか?」
「いや、僕もまだ手探りだけどね」
局長が苦笑する。
暁は答えない。
ただ、じっとパンを見つめていた。
「少しなら、食べられるかもしれませんね」
サトリさんが言った。
「でも、この子は……」
「人の食べ物を食べられるか、ですか?」
「うーん」
サトリさんは暁を見つめる。
「試してみてもいいのではないでしょうか」
「……そうだね」
局長はパンを小さくちぎった。
それを暁の口元へ近づける。
「暁。食べるかい?」
暁はしばらくパンを見つめていた。
そして――。
ほんの少しだけ口を開いた。
「……食べた」
「うん」
局長の顔が、わずかに緩んだ。
「食べたね」
僕まで、なんだか嬉しくなってしまう。
「……普通の子供みたいですね」
「そうだね」
局長は小さく笑った。
「少なくとも、今はね」
その言葉だけが、少しだけ胸に残った。
送ることは決まっている。
だからこそ――こういう時間が、妙に大切に思えた。
昼を過ぎる頃には、暁はすっかり目を覚ましていた。
まだ言葉はほとんど話さない。
けれど、僕が近づけば目で追うようになり、サトリさんが声をかければそちらを見る。
そして何より――。
局長が少し離れると、途端に不安そうな顔をするようになった。
「局長、これどうします?」
「何が?」
「暁がずっと局長を目で追ってます」
「……本当だ」
局長が振り返る。
暁の顔が、ぱっと明るくなった。
「……分かりやすいですね」
「そうだね」
局長は苦笑しながら、また暁のそばへ戻る。
すると、暁は安心したように局長の袖を掴んだ。
「……これは、離れにくくなるなあ」
「局長が言うんですか?」
「僕も困っているんだよ」
そう言いながらも、局長は嬉しそうだった。
サトリさんが、そんな二人を見て穏やかに微笑んでいる。
「局長は今日、泊まりになりますか? 暁ちゃんのお布団、準備しておきますね」
「ああ。お願いするよ」
「はい」
サトリさんは小さく頷いた。
僕は、その光景を眺めながら思った。
ほんの少し前まで、この子には何もなかった。
名前も。
居場所も。
自分が何者なのかさえ。
けれど今は――。
少なくとも、この腕の中だけは。
暁にとって、安心できる場所になり始めているのかもしれない。
それでも、やっぱり不思議だった。
たった数時間前まで、自分の名前を口にするだけで精一杯だったはずなのに。
やがて、サトリさんも帰宅する時間になった。
「それでは、お先に失礼しますね」
「うん。お疲れさま」
「お二人も、あまり無理をなさらないでくださいね」
「分かってるよ」
そう言って、サトリさんは局を後にした。
静かになった局で、時間だけがゆっくりと過ぎていく。




