少しずつ
僕と局長――そして暁は三人で局へ戻るため、診療所を後にした。
診療所を出て、しばらく歩いた頃だった。
「……あれ?」
隣を歩く局長の腕の中を見て、僕は思わず足を緩めた。
「どうしたんだい?」
「いえ……」
昨日から何度も見ているはずなのに、今は何かが違って見えた。
腕の中で眠っていた暁は、昨日より少しだけ大きくなっていた。
昨日は、一、二歳くらいに見えた。
けれど今は――三歳くらいだろうか。
小さかった手足が、ほんの少し伸びている。
頬に残っていた赤ん坊のような幼さも薄れ、顔つきが少しだけはっきりしていた。
「……大きくなってません?」
「うん」
局長は驚いた様子もなく、暁を見つめた。
「僕も、さっき気づいたよ」
「いつの間に……」
「この子なりに、少しずつ成長しているんだろうね」
そう言って、局長は小さく笑った。
その時だった。
暁が、局長の服をぎゅっと握った。
「……」
昨日までは、ただ触れているだけだった小さな手。
今は違う。
まるで、自分の意思で局長を掴んでいるように見えた。
「局長」
「うん?」
「この子……」
僕が言葉を探していると、局長は腕の中を覗き込んだ。
暁は目を開けていた。
まだ眠そうな顔をしている。
けれど、その目はまっすぐに局長を見つめていた。
「……少しずつ、分かってきているのかもしれないね」
局長はそう言って、暁の頭をそっと撫でた。
しばらく歩くと、管理局の建物が見えてきた。
「ただいま戻りました」
局長が扉を開ける。
僕も続いて中へ入った。
いつもの静かな空気。
けれど――。
「おかえりなさい」
奥から、サトリさんの穏やかな声が聞こえた。
「ただいま戻りました、サトリさん」
「お疲れさまでした。白澤さんのところでは――」
そこまで言って、サトリさんの言葉が止まった。
視線が、局長の腕の中へ向く。
「……あら」
サトリさんは、少し離れたところから暁を見つめた。
昨日も会っている。
けれど、今日は明らかに違っていた。
「……ずいぶん早いですね」
「そうだね」
局長は暁を見つめた。
「この子には、人と同じ時間が流れているわけじゃないのかもしれない」
局長が腕の中の暁を見下ろす。
「名前も決まったんだ。暁っていうんだよ」
「暁……」
サトリさんが、その名前をゆっくり口にする。
「とても、素敵な名前ですね」
「ありがとう」
暁が、その声に反応するように顔を上げた。
まだ少し眠そうな目が、サトリさんを見る。
「……こんにちは、暁ちゃん」
サトリさんは笑った。
けれど、いつものように思念を送ることはしなかった。
僕は、それに気づいた。
サトリさん自身も、きっと分かっているのだ。
今は、暁の近くで自分の力を使わない方がいい。
だから――声だけで話している。
暁はしばらくサトリさんを見つめていた。
やがて、小さな手が局長の服をきゅっと握る。
「……ふふ」
サトリさんが小さく笑った。
「今日は、ここからご挨拶ですね」
「うん。それがいいと思う」
局長も笑う。
「暁ちゃんも、少しずつこの場所を覚えていけばいいからね」
サトリさんが微笑む。
局長の腕の中で、暁が小さく身じろぎした。
そして、改めてサトリさんへ顔を向ける。
「……」
サトリさんも、黙って見返す。
僕は二人の間に流れる静けさを、なんとなく不思議に感じていた。
やがて。
「……あ」
小さな声が聞こえた。
けれど、それはサトリさんのものではなかった。
「……え?」
思わず声が漏れる。
局長も、少しだけ目を見開いた。
腕の中の暁は、何も言わない。
ただ、小さな手で局長の服を握ったまま、サトリさんを見つめている。
腕の中の暁の唇が、ほんの少し動く。
「……あ……かつき」
小さな声が、静かな事務所に落ちた。
まだ言葉を覚えたばかりの子供のような、たどたどしい声だった。
けれど、聞き間違いではない。
暁は確かに、自分の名前を口にした。
サトリさんが、ほんの少し目を細める。
「……良治くん」
「はい?」
「この子、やはり昨日とは違いますね」
「やっぱり……そうですよね」
「ええ」
サトリさんは暁を見つめたまま、静かに続けた。
「昨日は、ただ眠っているだけの子に見えました」
「……はい」
「でも、今は違う」
サトリさんの声が、ほんの少し柔らかくなる。
「ちゃんと、こちらを見ています」
局長は何も言わなかった。
ただ、腕の中の暁を見下ろす。
暁はその視線に気づいたのか、小さな手を少しだけ動かした。
そして――。
局長の胸元へ、頬を寄せた。
「……」
局長の表情が、わずかに緩む。
「眠いのかな」
そう呟いて、暁の背中をゆっくり撫でる。
サトリさんは、その様子を静かに見ていた。
「……安心しているのでしょうね」
「え?」
「この場所というより――」
サトリさんの視線が、局長へ向く。
「局長の腕の中にいると、安心するのでしょうね」
局長が、少しだけ困ったように笑った。
「そうだといいね」
「きっと、そうですよ」
サトリさんは穏やかに微笑む。
それから、僕の方を見る。
「良治くん」
「はい?」
「……これから、いろんなことを知っていくのですね」
「……はい」
けれど――局長は何も答えなかった。
ただ、腕の中の暁を抱いたまま、静かに立っている。
送ることは決まっている。
それでも。
そこへ辿り着くまでには、この子と過ごす時間がある。
話をする時間も。
この子が何を感じ、何を望むのかを知る時間も。
そして――。
局長自身が、暁と向き合う時間も。




