暁
「……少し、見せてもらってもいいか?」
「もちろん」
局長の許可を得て、白澤さんは局長の腕の中の幼子をじっと見つめ始めた。
静かな書斎に、しばらく沈黙が降りる。
やがて――。
「……やっぱり、そうか」
低い声が落ちた。
「何か、分かりましたか?」
僕が尋ねると、白澤さんはコーヒーへ一度だけ目を落とし、それから静かに口を開いた。
「……残っていた痕跡は、この子のものだ。この子から漏れ出ている力が、周囲の人外に影響を及ぼしている」
「……やっぱり、この子が原因なんですね」
「ああ。だが、朧ほどの力じゃない」
白澤さんは幼子を見つめたまま、少しだけ目を細めた。
「それでも、長く近くにいれば悪影響を受ける可能性はある」
白澤さんは初音さんへ視線を向けた。
「初音くんは、少し離れていた方がいい」
「……分かりました」
初音さんは小さく頷いたものの、その視線は幼子から離れなかった。
「……でも」
少しだけ迷うように、彼女が言葉を継ぐ。
「この子、ずっとひとりだったんですよね? だったら……私も、そばにいてあげたいです」
「近づくのは危険だぞ」
「はい。分かっています。……だから、ここから見ています」
初音さんは、どこか寂しそうに微笑んだ。
「触れられなくても……この子が目を覚ました時に、『怖くない場所だ』と思ってもらえたら嬉しいから」
白澤さんは何も言わなかった。
しばらくして、手にしていたカップを静かにテーブルへ置く。
「……気持ちは分かる」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「だが、この子をこのままにしておくこともできない」
「……」
「力はまだ小さい。だが、安定しているわけじゃない。このまま何もせずにいれば、また膨れ上がる可能性がある」
白澤さんは、局長へ視線を向けた。
「そうなれば、今より広い範囲の人外に影響が出るだろう」
「……はい」
局長は幼子を抱いたまま、静かに答えた。
その横顔には、昨夜から消えない迷いが浮かんでいた。
白澤さんは、それを見ていた。
きっと、千年前にも同じ顔を見たのだろう。
大切な存在を守るために、人の世から切り離すしかなかった時の顔を。
「まず、この子をどうするのか。そして――名前がないままじゃ、心を通わせることも難しいだろう」
「……名前、ですか」
「ああ。少なくとも、この子を呼ぶための名前が必要だ」
局長は腕の中の幼子を愛おしそうに見つめ、小さく息を吐いた。
「そうだね……この子自身が自分の名前を選べるようになるまで、まずは僕たちが呼べる名前を考えよう」
僕は静かに昨日のことを思い出していた。
自分でも不思議なくらい、自然に言葉が出た。
「……『暁』」
その名を口にした、まさにその瞬間――幼子がぱっと目を覚ました。
「……え?」
小さな瞳が、ゆっくりと僕へ向けられる。
まるで、初めて自分のために呼ばれた名前を認識したかのように。
「あ……すみません」
僕は少し慌てて言った。
「昨日、局長が話していたでしょう? 朧さんと隠り世へ行く前夜に、ここで会っていたって……。あの夜の先に今があるんだと思ったら、なんとなく、この名前が浮かんで……」
局長は、腕の中の幼子を見つめ直す。
「……暁、か」
その声に、幼子が小さく瞬きをした。
「……どうやら、気に入ったみたいだな」
白澤さんがわずかに口元を緩める。
「……そうだね。……暁」
局長がもう一度名前を呼ぶと、暁は静かに局長を見つめ返した。
しかし――白澤さんの声から、いつもの気だるさが完全に消えた。
「で……瀬尾くん。君は、この子をどうするつもりだ?」
局長はすぐには答えなかった。
腕の中の暁を見つめる。
暁の小さな手が、局長の服をかすかに握っていた。
「……隠り世へ送る」
やがて、局長が呟いた。
「千年前、朧を送った時と同じように……」
その言葉は、決意というより、自分に言い聞かせているように聞こえた。
「でも……」
初音さんの表情が曇る。
「分かってる。……他に方法はないんだ」
局長は腕の中の暁を見る。
「この子を現世に置き続ければ、また周りの人外に影響が出る。それに、この子自身も人の感情を吸い続けてしまう」
そこで一度、言葉を止めた。
「——ここには……いられないんですね」
初音さんが俯く。
局長の指が、暁の小さな髪をそっと撫でる。
「何も知らないまま、ただ向こうへ送ることだけはしたくない」
やがて、局長が呟いた。
その様子を、白澤さんは黙って見ていた。
そして――。
「ああ」
静かに頷く。
「隠り世へ送るのが、一番いいだろう」
その言葉は、決断を急かすものではなかった。
むしろ、局長が自分で辿り着いた答えを、そのまま受け止めるような声だった。
「ただし――」
白澤さんの声が落ちた。
「この子は、そのまま送ればいいわけじゃない」
局長が顔を上げる。
「……そうだね」
「隠り世へ行けば、人の負の感情に触れることはなくなる。だから、これ以上力が膨れ上がることは抑えられるだろう」
白澤さんは腕の中の暁へ視線を向けた。
「だが、すでに抱えている力まで消えるわけじゃない」
「……じゃあ」
僕は暁を見る。
「この子も、朧さんと同じように……送る前に力を抑える必要があるんですね」
「ああ」
白澤さんは静かに頷いた。
「千年前の朧もそうだった。隠り世へ送る前に、周りの人外へ影響しない程度まで力を封じた」
「完全に消したわけじゃないんですよね?」
「そうだ。力そのものをなくしたわけじゃない。ただ、周囲へ影響を及ぼさないように抑えた」
僕は小さく息を吐いた。
「……この子も、同じようにする」
「ああ」
白澤さんの視線が、再び局長へ向く。
「まずは、この子から漏れ出ている力を抑える。それができなければ、安全に送り届けることはできない」
「……分かった」
局長は頷いた。
けれど、その声にはまだ迷いが残っていた。
白澤さんは、それを責めなかった。
むしろ――その迷いこそ、分かっているというように、しばらく局長を見つめていた。




