残された想い
風もないのに、水面がゆっくりと揺れた。
一度。
二度。
まるで池の底から、何かが目を覚ましたように。
僕は息を呑んだ。
「……局長」
「ああ」
水面の中央が、ゆっくりと黒く染まっていく。
そこから、黒い煙のようなものが、ゆっくりと立ち上がった。
形を持たないまま、ゆらゆらと蠢いている。
周囲の空気が、一気に重くなった。
「……ッ」
思わず息を止める。
長い年月をかけて、何かを吸い込み続けてきたような――そんな濁りだった。
けれど――。
その濁った妖気の奥深くに、ほんの僅かだけ。
透き通るような気配があった。
禍々しくない。
むしろ、あまりにも静かで。
どこか切ないほど、澄んでいる。
(……なんだろう。この感じ)
胸の奥で、小さな違和感が弾けた。
黒い煙が大きく揺れる。
まるで、こちらの存在に気づいたかのように。
そして、その輪郭がゆっくりと変わっていく。
僕は、その奥にあるものから目を離せなかった。
「局長……これ……」
声をかけようとした、その時だった。
黒い煙が丸い輪郭を取ったと思ったら局長に向かってきた。
黒い何かは局長に触れるか触れないかの距離で止まった。
そして――。
濁った煙の奥から、かすかな声が零れた。
『あ……』
そこで言葉が途切れる。
局長が一歩ずつ近づく。
黒い煙が大きく揺れ、声が掻き消える。
局長は、何も言わずにその思念を見つめていた。
「……朧?」
その名を呼んだ瞬間、黒い煙が大きく揺れた。
『……みち……な…り…』
局長の表情が、完全に止まった。
その呼び名を聞いた瞬間、局長の目が見開かれる。
「……そうか」
ぽつりと、局長が呟いた。
「ここ……だったのか」
局長は池の周囲を、そしてあのねじ曲がった一本の大木をゆっくりと見た。
千年という月日で街が変わり、地形が変わり、公園になり、池ができていたから、分からなかったのだ。
けれど――あの日二人で見上げた一本の大木と、自分を呼ぶその声が、千年の記憶を鮮やかに引き戻した。
「朧と……隠り世へ送る前の夜に、二人で来た場所だったんだ」
僕も、こだまさんも息を呑んだ。
「……だから、僕を」
局長が、小さく呟く。
「昔の名前で呼んだんだね」
黒い煙が、ゆっくりと揺れる。
その声は、ひどく静かだった。
「あの夜、君から零れた思念は……」
そこまで言って、局長は口を閉ざした。
何が残っているのか。
それを今の僕たちには、まだ確かめる術がなかった。
局長は、黒い思念をじっと見つめる。
黒い煙が、かすかに揺れた。
僕には、それが泣いているようにも見えた。
けれど――。
その直後だった。
黒い煙の奥で、何かが蠢いた。
今までのものとは違う。
もっと重く、濁った気配だった。
「……でも」
局長の表情が変わる。
その濁った気配を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……白澤さんの仮説は、当たっていたんだね」
「……?」
僕が局長を見る。
「君は、この千年の間に……たくさんのものを取り込んだんだね」
黒い煙が、ゆらりと揺れる。
『……ひとり……は……いや……』
その声に重なるように、別の声が響いた。
『……いや……』
『……にくい……』
『……かなしい……』
『……こわい……』
僕は息を呑んだ。
いくつもの声が、ひとつの思念の中から重なって聞こえてくる。
局長は、それをじっと見つめていた。
「怒りも、悲しみも、憎しみも……恐怖も」
黒い煙の奥で、濁った感情が渦を巻く。
「そういう人間の負の感情を、少しずつ吸い込んで……」
局長が静かに息を吐く。
「そのたびに、君自身も大きくなっていったんだね」
僕は、白澤さんの言葉を思い出した。
――朧もそうだったろ……?
人の負の感情を吸収することで、力を増していく。
けれど、この思念は朧そのものではない。
あの夜、朧から零れ落ちた一つの想い。
それが長い年月の中で、少しずつ人の負の感情を取り込んで膨らんでいったのだ。
それでも――朧本人ほどの力を持っているわけではない。
僕は、街で起きていたことを思い返した。
人外たちの妖気に、滞りが生じていた。
力が不安定になり、普段なら問題なく扱えるはずの能力まで、うまく使えなくなっていた。
あれは、この思念が長い時間をかけて大きくなったことで、その周囲に妖気の滞りを生み出していたからなのだ。
局長は、濁った煙の奥にある、ほんの僅かな澄んだ気配から目を離さなかった。
「……それでも」
局長が、静かに呟く。
「最初にここへ残した想いまで、なくなったわけじゃないんだね」
黒い煙の奥で、澄んだ気配がかすかに揺れた。
局長は、その小さな揺らぎを見つめる。
「君の中には、まだ残っている」
そう言って、ゆっくりと手を伸ばした。
「あの夜、朧が抱えていた想いが」
黒い煙は、逃げなかった。
局長は、そのままそっと抱きしめた。
すると――。
黒い煙が、ゆっくりと形を変えていった。
それは、人の形になった。
小さな身体。
幼い顔。
その姿は、何も知らない幼子のようだった。
そしてその子は、局長の腕の中で、静かに目を閉じた。




