また会いたくて
白乃さんは、静かに笑った。
「家も、仕事も、これまでの暮らしも。全部捨ててね」
「……そこまで」
「ええ」
白乃さんは窓の外を見る。
「『君と一緒にいられるなら、それでいい』って」
その言葉を最後に、白乃さんはしばらく黙った。
まるで九百年前の山の景色を、今もそこに見ているようだった。
「だから私も……」
白乃さんの指が、カップを包む。
「この人だけは、絶対に幸せにしようって思ったの」
「……白乃さんは、その時からずっと、その人を大切にしてきたんですね」
初音さんが慈しむように尋ねた。
「ええ」
白乃さんは、迷いなく頷いた。
「ずっとよ」
その言葉には、九百年という時間を少しも長いと思わせないほどの確かさがあった。
「でもね……人間の時間って、短いでしょう?」
「……」
「一緒に暮らして、歳を取って……やがて、あの人は私より先に亡くなったわ」
白乃さんは、少しだけ目を伏せた。
「それは、仕方のないことだったの」
「……はい」
「分かっていたつもりだった。でも――」
そこで、白乃さんは小さく笑った。
「やっぱり、寂しかったわね」
店の中に、しばらく沈黙が落ちる。
「それから、何十年か経った頃だったかしら」
白乃さんは、遠い記憶を辿るように続けた。
「また、あの人に会ったの」
「……え?」
初音さんが目を丸くする。
「生まれ変わっていたのよ」
「転生していた、ということですか?」
僕が尋ねると、白乃さんは頷いた。
「ええ。あの頃は、まだ私も輪廻なんてものを深く考えていなかったけどね」
「どうやって見つけたんですか?」
「それがね……」
白乃さんは少し困ったように笑った。
「偶然だったの」
「偶然?」
「ええ。たまたま人里へ下りた時に見かけたのよ」
白乃さんの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「顔を見た瞬間に分かったわ」
「……分かったんですか?」
「ええ」
白乃さんは、当たり前のことのように答えた。
「姿も違ったし、声も違った。もちろん、本人には前世の記憶なんてなかったわ」
「それでも?」
「それでもよ」
白乃さんは微笑んだ。
「私には、あの人だって分かったの」
初音さんが、何とも言えない表情で白乃さんを見る。
「……すごいですね」
「そう?」
「はい。私だったら、分からないと思います」
「私も、どうして分かったのかは分からないわ」
白乃さんは、少しだけ首を傾げた。
「ただ……見つけた瞬間に、『ああ、この人だ』って思ったのよ」
「その後、どうしたんですか?」
「もちろん、近づいたわ」
「……」
「そして、また一緒に暮らしたの」
「やっぱり……」
初音さんが苦笑する。
「ふふっ」
白乃さんも楽しそうに笑った。
「でもね、その時は本当に偶然だったの」
「二度目に会えたのも?」
「ええ」
白乃さんは頷く。
「だから私は、思ったのよ」
少しだけ間を置いて。
「もしかしたら、また会えるんじゃないかって」
「……」
「それから、あの人が亡くなったあと――」
白乃さんは、ゆっくりとカップを置いた。
「また生まれ変わるあの人を、探すようになったの」
「自分で?」
「ええ」
即答だった。
「今度は、偶然なんか待っていられなかったから」
「……探し回ったんですか?」
「探したわ」
白乃さんは、少し照れたように笑う。
「人の多い町も、山奥の村も。噂を聞けば見に行ったし、子供が生まれたと聞けば会いに行った」
「そこまで……」
「だって、また会いたかったもの」
あまりにも自然に言うので、僕は言葉を失った。
「三度目からは、毎回そうしたわ」
「毎回……?」
「ええ」
白乃さんは頷いた。
「見つけて、一緒に暮らして。歳を取って、また見送って。そして、また探すの」
「……」
「何度も何度もね」
その声には、悲しさよりも不思議な穏やかさがあった。
「だから、あの人が何度も私の近くに生まれてきたように見えるのは――」
白乃さんは、少しだけ笑う。
「半分は、私のせいなのよ」
「……半分?」
「だって、私が探したんだもの」
白乃さんは、いたずらっぽく肩をすくめた。
「近くに生まれてきたから見つけたんじゃないわ。見つけるまで、私が探したの」
その言葉に、初音さんが少し黙る。
「……でも、それって」
「うん?」
「でも……毎回見つけられたのには、何か理由があったのかもしれませんね」
「さあ」
白乃さんは笑った。
「そこまでは、私にも分からないわ」
けれど――。
ほんの一瞬だけ、その笑顔に何かを考えるような影が差した。
「ただね」




