それでも、あの人は
白乃さんは、静かにカップへ視線を落としていた。
「一日来なくて。二日来なくて……」
そこで一度、言葉を止める。
「私はその時になって、初めて気づいたの」
「何に……?」
白乃さんは、ほんの少しだけ笑った。
「私、あの人が来るのを待っていたんだって」
そこまで言って、白乃さんはどこか照れくさそうに微笑んだ。
僕と初音さんは、静かにその言葉の余韻に耳を傾ける。
「でもね。そう簡単にはいかなかったの」
「……何かあったんですか?」
初音さんが尋ねる。
「ええ」
白乃さんはカップに視線を落とした。
「あの人に、縁談が持ち上がったの」
「縁談……」
「奉公人として働いていたとはいっても、ずっと診療所にいるわけじゃないもの。あの人にも故郷があったし、家族もいた。いつまでも奉公人をしているわけにはいかなかったのよ」
「それで、結婚のお話が?」
「そう」
白乃さんは小さく頷いた。
「向こうの家からすれば、当然の話だったんでしょうね。年頃になった息子に、きちんとした嫁を迎えさせる。あの人も、最初は断るつもりなんてなかったみたい」
「……」
「私には、何も言わなかったわ」
その言葉だけが、妙に静かだった。
「山へ来る回数も少しずつ減っていった。来ても、どこか上の空でね」
「……」
「薬草を受け取っても、いつものようにすぐには帰らなくなったの。何か話したそうにしているのに、結局何も言わずに帰っていくのよ」
「白乃さんは、何も聞かなかったんですか?」
「聞けなかったわ」
白乃さんは苦笑した。
「聞いてしまったら、何かを望んでしまいそうだったから」
「白乃さんは、その時どうしていたんですか?」
僕が尋ねると、白乃さんは少し困ったように笑った。
「どうもしなかったわ」
「え?」
「だって、私には関係のない話でしょう?」
「……」
「私は山の薬草園を預かっているだけ。あの人は人間で、私は――」
そこまで言って、白乃さんは一瞬だけ言葉を止めた。
「……ただの薬草園の女」
そう言って、笑った。
けれど、その笑顔はどこか寂しかった。
「それでも、あの人は何度も山へ来たの」
「縁談が決まった後も?」
「ええ」
白乃さんは遠い昔を思い出すように目を細めた。
「ある日、夜になっても帰らなかったのよ」
「……夜まで?」
「ええ。私がどうしたのって聞いたらね」
白乃さんは、ほんの少しだけ笑う。
「『帰らない』って」
僕は思わず顔を上げた。
「それで……?」
「私は、馬鹿ねって言ったわ。帰らなきゃいけない場所があるでしょうって」
「白乃さんらしいですね」
初音さんが小さく笑う。
「そう?」
「はい」
「でもね――」
白乃さんの声が、少しだけ低くなった。
「その翌朝、あの人は言ったの」
白乃さんは、昔の彼の言葉を思い出すように、一度だけ目を閉じた。
「『縁談は断った』って」
「……」
「理由を聞いたら、『あなたと離れたくないから』って」
「……それだけだったんですか?」
初音さんが、思わず尋ねる。
「ええ。それだけ」
白乃さんは笑った。
「家族には反対されたでしょうし、帰る場所だってなくなったはずよ」
「それでも……」
「それでも、あの人は私のところへ来たの」
初音さんが息を呑む。
僕も、何も言えなかった。
「私はね、馬鹿な人だと思ったわ」
白乃さんは苦笑する。
「だって、あの人は私が何者なのか知らないんだもの」
「……知らなかった?」
「ええ」
白乃さんは、僕を見る。
「最後まで知らなかったわ。私が白蛇だなんてことも、人間よりずっと長く生きることも――」
「……気づかなかったんですか?」
「ええ。あの人と暮らしていた頃は、私も人の時間に合わせて少しずつ姿を変えていたから」
白乃さんは、少しだけいたずらっぽく笑った。
「まあ、私もわざわざ教えるつもりはなかったしね」
それでも――。
あの人は、私のところへ来た。




