思念を辿って
「おはよう。槇尾くん。診療前の朝早くに悪いね」
「いえ、こちらこそ時間を作っていただいてありがとうございます」
白澤さんは僕を書斎に通すと、淹れてあったコーヒーをカップに注いでくれた。
「葉月与三郎さんと河野青童さんのことだろう?」
「はい」
白澤さんはコーヒーを僕の前に置くと、自分の椅子へ腰を下ろした。
「二人とも、もう一度診てみたよ」
「どうでしたか?」
白澤さんはすぐには答えず、机の上に置かれた二人分の診療記録へ目を落とした。
「身体そのものに異常はない。……ただ、あの二人の体内に溜まっていた妖気を視た時、特有の『痕跡』が残っていたんだ」
「……痕跡、ですか?」
「ああ。彼らの妖気に何かが干渉したような『痕跡』がそのまま焼き付いていたんだよ」
「……妖気の滞りは?」
「薬が効いてるのか……かなり落ち着いている」
僕は、少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあ……もう大丈夫なんですか?」
白澤さんは静かに首を横に振った。
カルテを閉じ、まっすぐ僕を見る。
「原因がなくなったわけじゃない」
僕は足元に視線を落とした。
「……はい」
白澤さんは、机の上のカルテを指先で軽く叩いた。
「先日も話したけど――今回の異変は、身体の中で起きているものじゃない」
「……外から来ている?」
「そう」
短く返した白澤さんの声には、わずかな苛立ちが滲んでいた。
僕は、先日の局長との会話を思い出す。
「朧さんの零れた思念、ですよね」
「瀬尾くんから、聞いたんだろ?」
「はい」
「私が知りたいのは、零れた思念があることじゃない。その思念が、どうなっているかだ」
「……?」
「君は、瀬尾くんからどこまで聞いた?」
「千年前のことを。朧さんを人の世から切り離すために、隠り世を作ったこと。それから……局長が神の依代になったことも」
「そうか」
白澤さんは小さく息を吐いた。
「槇尾くん。思念っていうのは、ただの記憶じゃない」
「……?」
「強く残った感情ほど、形を変えて残ることがある」
それならば、千年前に零れた思念には何が残っているんだ?
「……朧さんは、何を思っていたんでしょう」
「さあね。私にも、そこまでは分からない。でも――」
白澤さんは窓の外を見る。
「でも、ひとつだけ覚えておいてほしい」
「はい」
「朧という子は、ただ守られていたわけじゃない」
思わず顔を上げる。
「……どういう意味ですか?」
「瀬尾くんも、あの子をただ可哀想だと思っていたわけじゃないってことさ」
白澤さんは窓の外へ目を向けた。
「千年前のことを、私は全部見ていたわけじゃない。けれど、あの二人を知っている者なら……たぶん、気づいていたと思うよ」
「何に……?」
「互いを、大切にしていたんじゃないかってことに」
「……大切に?」
「うん」
白澤さんは、少しだけ苦笑した。
「瀬尾くんは、あの子を守るために人間であることまで捨てた。朧もまた、自分のためにそこまでした人間を、何とも思わなかったはずがない」
「……」
「ただ守った、守られた。それだけじゃないんじゃないかな」
「……じゃあ、二人は」
「さあね」
白澤さんは肩をすくめた。
「私に聞くより、本人に聞いたほうが早いんじゃないかい?」
「……そんなこと、聞けませんよ」
「だろうね」
即答だった。
「君、そういうところだけ妙に真面目だから」
「……」
「まあ、私が見た限りでは――」
白澤さんはそこで言葉を切り、コーヒーを一口飲んだ。
「人間っていうのはさ、案外そこまで親切じゃないんだ」
さらりと言ってから、僕を見る。
「ましてや、自分が人間であることまで捨てるなんてね」
「……それは」
「だから、まあ」
白澤さんは肩をすくめた。
「本人たちがどう思っていたか知らないけど、私なら『特別だった』くらいには言っておくかな」
僕は何も言えなかった。
朧さんが残した思念。
それが、千年もの間、この現世に残っている。
なら、その思念が抱えていたものは――。
「……そう考えると、妙なんだよね」
「え?」
白澤さんは、窓の外を眺めたまま呟いた。
「思念っていうのは、何もないところから生まれるものじゃない」
「……」
「誰かを想ったとか、悔やんだとか、守りたかったとか。そういうものが、残るんだ」
僕は黙って聞いていた。
「だから私は、今回の異変を調べるなら、症状だけを追っても意味がないと思ってる」
白澤さんは、机の上のカルテへ視線を戻した。
「この思念が、最初に何だったのか。そこまで辿らないとね」
そして、ふと何かを思い出したように、机の端へ手を伸ばした。
カルテとは別の、古い紙束を取り出す。




