猫又の便り
◇
「おかえりなさい」
管理局へ戻ると、サトリさんがいつものように僕たちを迎えてくれた。
その顔を見た瞬間、僕は先ほどの白澤さんの言葉を思い出した。
『君の身近にいる——例えば初音くんやサトリくん……繊細な子たちの変化を見逃さないように』
僕は、サトリさんの顔を見つめた。
いつもと変わらない、穏やかな表情だった。
けれど——白澤さんに言われたから、というだけじゃない。
この人たちに何かあった時、ちゃんと気づける自分でいたいと思った。
まだ僕は、局長や白澤さんのように何でも分かるわけじゃない。
できることだって、きっと少ない。それでも。
少なくとも、身近にいる人たちのことくらいは、僕がちゃんと見ていよう。
「ただいま戻りました」
「お疲れさまでした。」
いつもと変わらない、穏やかな声だった。
けれど、サトリさんは一瞬だけ僕の顔を見つめた。
『……良治くん』
「はい?」
『今日は、少し頼もしい顔をしていますね』
「……そうですか?」
自分では、よく分からなかった。
けれど――サトリさんは、何かを分かっているような顔で、ほんの少しだけ微笑んだ。
「それで、お二人はどうでしたか」
「ひとまず、症状は落ち着きました」
「それはよかったです」
サトリさんが、ほっとしたように微笑む。
僕は持っていた紙袋を差し出した。
「これ、サトリさんに」
「……私に?」
「白澤さんから頂いたケーキです」
サトリさんの目が、ほんの少しだけ嬉しそうに細くなる。
「まあ……ありがとうございます。持って帰って食べますね」
「はい」
サトリさんは紙袋を受け取ると、嬉しそうに給湯室へ向かっていった。
僕はその背中を見送り、ふと局の窓の外へ目を向けた。
その瞬間――
大きな真っ黒な影が、窓の外へ音もなく降り立った。
僕が目を凝らすより先に、その影がゆっくりとこちらを向く。
窓ガラスの向こうから、黒猫がしなやかに顔を覗かせていた。
「あ、黒さん」
隣にいた局長がすぐに気づき、窓を開ける。
「局長、お知り合いだったんですね」
「うん。まあ、昔からね」
「へえ……」
僕は少し意外に思った。
黒さんとは何度か顔を合わせているけれど、僕が知っているのは猫又であることと、その名前くらいだ。
まさか局長と以前から知り合いだったとは知らなかった。
黒さんは窓枠にひらりと飛び乗ると、僕たちを見回した。
「邪魔するぜ」
「どうぞ。今日は現世で?」
「ああ。ちょいと頼まれ物があってな」
黒さんはそう言いながら、首に提げていた小さな布袋を机の上へ置いた。
「これは?」
「隠り世の菓子だ。砂かけの婆さんが、こっちの知り合いに食わせてみろってよ」
「お菓子……?」
サトリさんが興味深そうに袋を見る。
「隠り世にも、お菓子屋さんがあるんですね」
「あるさ。最近は洒落た店も増えたぞ。昔ながらの団子屋も残ってるがな」
黒さんは得意げに尻尾を揺らした。
「この前なんざ、山の狸が始めたパン屋がえらい繁盛してやがった。朝っぱらから行列だ」
「狸がパン屋を……」
思わず想像してしまう。
「意外と器用なんだぜ、あいつら。焼き加減にうるさくてな」
黒さんはそう言って、窓の外へ目を向けた。
「まあ、俺ぁ決められた道を使って行ったり来たりしてるからな。頼まれりゃ何でも持ってくる」
「隠り世と現世を?」
「ああ。行きたい奴もいりゃ、こっちで用事がある奴もいる。荷物を届けることもあるし、人を案内することもある」
「……そういう仕事もあるんですね」
「仕事ってほどでもねぇさ」
黒さんは欠伸をして、前足で顔をこする。
「ただの使い走りだ」
「でも、便利そうですね」
「便利だろ?」
黒さんがふっと笑った。
「現世の宅配便より、よっぽど早いぜ」
「あ、黒さん」
僕は思わず声を掛けた。
「この前は……ありがとうございました。先日お見かけした時にお礼も言えず」
「……おう」
黒さんは窓枠に前足を掛けたまま、ふと思い出したように言った。
「そういや、あの嬢ちゃんは元気か?」
「……初音さんですか?」
黒さんはそっぽを向いたまま、しっぽを揺らした。
「また会ったら、撫でさせてやるって言っとけ」
「……撫でる?」
「ひんやりしててな。夏場にゃちょうどいい」
「黒さん……」
僕は思わず笑ってしまう。
「初音さん、喜びます」
「そうかい」
黒さんはそれだけ答えると、窓の外へ目を向けた。
「じゃあ、俺ぁそろそろ行くわ」
「もう行くんですか?」
「白澤様に隠り世の薬草を頼まれててな」
「……薬草?」
「最近、診療所が忙しいらしいじゃねぇか」
白澤さんの名前が出て、僕も少し前のめりになった。
「何かご存じなんですか?」
「さあな。薬草を持ってこいって頼まれただけだ」
黒さんは、それ以上は何も言わなかった。
僕は黙って考え込む。
白澤さんは、今回二人を診ている。
でも、今回の異変は――。
「……二人だけじゃないのか」
「ん?」
黒さんがこちらを見る。
「あ……」
思わず口に出ていたことに気づき、僕は口をつぐんだ。
「……何でもありません」
黒さんは黄色い目を細めた。
「そうかい」
それだけ言って、ひらりと窓枠から飛び降りる。
「じゃあな」
黒い影が夜の街へ溶けていく。
僕はしばらく、その背中を目で追っていた。
「……不思議な人ですね」
「猫だけどね」
「そうでした」
サトリさんも、くすりと笑った。
けれど、僕は笑えなかった。
さっきの黒さんの言葉が、まだ引っかかっている。
白澤さんが頼んだ薬草。
最近、忙しいという診療所。
そして――僕の口から、思わず出てしまった言葉。
二人だけじゃないのか。
「……局長」
「ん?」
「黒さんって……何か知ってるんでしょうか」
局長は、窓の外を見た。
「さてね。ああいう猫は、知らないふりが上手だから」
僕は窓の外を見る。
もう黒さんの姿はどこにもない。




