もう一つの道
僕は一度、口を開きかけて、閉じた。
「……局長」
「ん?」
それでも、気になったままではいられなかった。
「朧さんは……今も、隠り世にいるんですか?」
僕の問いに、局長は一瞬だけ目を丸くした。
それから――
とても優しく、目を細めた。
「……ああ。今もいるよ」
局長は、少しだけ寂しそうに笑った。
「千年前に私が作ったのは、あの子が生きるための場所だった。……やがて、他の人外たちの居場所にもなった」
「……?」
「でも、千年も生きているとね。いろんなものが見えてくるんだよ」
局長は社へ目を向けた。
「最初は、朧を……この世界に居場所を無くした子を守れればいいと思っていた。人の世から切り離して、誰にも傷つけられず、誰も傷つけずに生きられる場所があれば、それで十分だと」
少し間を置く。
「けれど、いつしか気づいたんだ」
「何に……ですか?」
「隠り世に渡る人外たちの中にはね。本当は、人間の世界で生きたかった子もたくさんいたんだ」
「……人間の世界で?」
「ああ」
局長は、遠くを見るように目を細めた。
「この土地で暮らしたかった。人間と一緒に笑って、食事をして、普通に生きたかった。けれど……怖がられた」
その声に、わずかな寂しさが混じる。
「力を持っている。それだけで拒絶されることもあった。自分が何者なのか知られるのが怖くて、隠れて暮らしていた子もいたよ」
僕の心がざわめいた。
局長は、しばらく黙っていた。
「……それを聞くたびに、思うんだ」
その声に、わずかな苦さが滲んだ。
「私は、朧を守るために人の世から切り離した。そしてその場所は、多くの人外にとって安心できる場所になってくれた。それは今でも、何ひとつ間違っていなかったと思っているよ」
「……」
「けれどね。そんな場所ができたからこそ……欲が出てしまったんだ」
「欲……?」
「あの子たちに、もう一つの道も作ってあげたい――そんな欲だよ」
局長は、静かに息を吐いた。
「人外たちの現世で生きたいと願う気持ちを……その想いまで閉じ込めてしまっていいのだろうか、とね」
「……生きたいと願う気持ち」
「そう。そのまま現世で生きていける道もつくってあげたくなったんだよ」
局長は、ゆっくり僕を見る。
「隠り世という大切な場所を守り続けるだけではなく、もう一つの選択肢をつくること。そう思うようになるまでに……本当に、長い時間がかかった」
千年。
その言葉が、改めて胸に重く落ちた。
「最初はね、白澤さんや白乃さんたちと、できることから始めたんだ」
「できること……?」
「暮らしの相談に乗ったり、正体を知られずに働ける場所を探したり。住む場所を一緒に探したこともあった」
「……それを、ずっと?」
「うん」
「何百年も?」
「うん」
あまりにも簡単に返された言葉に、僕は黙り込んだ。
何百年。
僕にとっては、想像することさえ難しい時間だ。
「人間の社会は、何度も形を変えたからね」
局長は苦笑した。
「仕事の仕組みが変われば、昨日まで暮らせていた子が、突然居場所をなくすこともあった。だから、そのたびに新しい方法を考えた」
「……それを、また?」
「うん。何度でも」
局長は、まるで当たり前のことのように言った。
「気がつけば、私が知っていた人間の世のほうが、ずっと昔になっていたよ」
僕にとっての数十年でさえ、想像するのは難しい。
それを、この人は「ずっと」の一言で済ませてしまう。
「何百年も、そういう活動を地道に続けてね。そうして時代が変わり、ようやく人間側の理解者や、国とも話ができるようになったんだ」
「国と……」
「ああ」
局長は穏やかに頷いた。
「人外をただ隠すのではなく、人間の社会の中で生きられる仕組みを作ろう、と」
僕は息を呑んだ。
「それが……」
「人外適応管理局だよ」
「……管理局」
「そう」
局長が僕を見る。
「……千年前には、想像もできなかった制度だよ」
局長はそう言って、ほんの少し寂しそうに、けれど愛おしそうに笑った。
「そして、君にも出会った……」




