隠り世のはじまり
「朧さんの力は、大丈夫だったんですか?」
「ああ」
局長は静かに頷いた。
「隠り世へ送る時に、彼女の力を封じた。周りの人外たちに影響しない程度までね」
「……封じることができたんですね」
「うん。完全に消したわけじゃない。でも、人の負の感情に触れなければ、これ以上、力が増えることはないからね」
局長は、境界の向こうへ視線を向けた。
「だから、あの場所なら――彼女は誰かを傷つけずに、生きていける」
「そうだったんですね……隠り世は、人外のための場所なんですね」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。
「うん。白澤さんや白乃さんとも話していたんだ。現世で生きにくい思いをしている子たちがいるとね」
局長は、月明かりに照らされた社へ目を向けた。
「一人きりにするんじゃなくて、誰かと一緒にいられる場所にしたかった」
少しだけ間を置いて、局長が笑った。
その横顔を見ながら、僕はふと違和感を覚えた。
僕が知っている隠り世は、大昔、人と人外が袂を分かったときに作られ、多くの人外がそこへ移り住んだ――そう聞いている。
人外の間では、そう伝えられている。
けれど、今、局長から聞いた話は少し違っていた。
最初から、そこに多くの人外がいたわけじゃない。
始まりにいたのは、ひとつの存在だった。
人の世から切り離さなければならなかったあの子のために、局長は居場所を作った。
そして、その場所に少しずつ、現世で生きにくさを抱えた人外たちが集まっていった。
長い年月の中で、その始まりを知る者はいなくなった。
やがて隠り世は、「人外のためのもう一つの世界」として語られるようになったのだろう。
……僕が知っていたのは、きっと、その後の隠り世だった。
大きな月が、局長の横顔を静かに照らしていた。
「白澤さんには今でも嫌味を言われるよ」
局長が、ふっと笑う。
「『物好きな出来損ないの陰陽師が、余計な業まで背負い込みやがって』ってね」
「……それは、言いそうですね」
「まったく。返す言葉もないよ」
そう言って笑う局長を、僕はしばらく見つめていた。
聞きたいことがある。
けれど、それを口にしていいのかは分からなかった。
千年前の話を聞いているはずなのに、どうしてだろう。
局長の言葉からは、それが遠い昔の出来事だという感じがしなかった。
まるで、今もどこかで続いていることのように聞こえた。




