神の依代
古びた社が、月明かりの中に静かに佇んでいた。
「……あの社?」
「そう」
局長は短く答えた。
「あの社の中、その一番奥に、隠り世へつながる道がある」
僕は、思わず社殿へ目を凝らした。
「……それを作ったのも、局長なんですか?」
「うん」
僕は思わず局長を見る。
「人間の身で……そんなものを作ったんですか?」
局長は、少しだけ首を横に振った。
「正確には、人間のままでは無理だった」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
「……人間のままでは、作れなかった?」
「ああ」
局長は静かに答えた。
「あの子の居場所を作るには、それだけの力が必要だったんだ」
「……じゃあ、どうしたんですか?」
局長はすぐには答えなかった。
ただ、しばらく月を見上げていた。
その横顔を見ていると、これから話されることが、僕の知っている「局長」の延長にはないような気がした。
「神を、この身に迎えたんだ」
「……神様?」
思わず聞き返す。
局長は月から視線を下ろし、古びた社へ目を向けた。
「この土地に、古くから祀られていた神様だよ。長い間、この場所を見守ってきた神様に、願ったんだ。あの子の居場所を作りたい、とね」
その言葉に、僕は社を見る。
「……神様が、力を貸してくれたんですか?」
「そう簡単な話でもなかったよ」
局長は苦笑した。
「あちらには、あちらの理があるからね」
そう言って、しばらく黙る。
「……あの子を受け入れる場所を作る。それだけのことなのに、必要になる力は、私が思っていたよりずっと大きかった」
僕は黙って局長を見つめた。
千年。
その言葉が、今さらになって重く感じられた。
「そのためには……私が神の依代になるしかなかった」
「依代……」
聞き慣れない言葉を、僕は小さく繰り返した。
局長は、自分の胸元へそっと手を当てる。
「神様を、この身に宿すんだよ」
その言葉の意味を、僕はすぐには飲み込めなかった。
「……それって」
口にしかけて、言葉が止まる。
人間の身体に、神様を宿す。
それがどういうことなのか、考えれば考えるほど、嫌な予感だけが膨らんでいった。
「人間の身体に神様を迎える。それは、人間のままではいられないということでもあった」
「……だから」
「ああ」
「……あの夜、私は人間であることを捨てたんだ」
僕の息が詰まる。
人間であることをやめた。
それは、正義のためでも、力を求めたためでもない。
ただ――あの子の居場所を作るために。
悲しい理由で生まれ、誰かを傷つけることを恐れて、自分自身を消そうとした存在を、消さずに済む場所を作るために。
そのために、局長は自分自身を神の依代にした。
人間として生きることと引き換えに、この土地と自分を結びつけたのだ。
「……そして、彼女ひとりだけの場所にしてしまえば――あの子は、きっと寂しかった」
局長の声が、少しだけ柔らかくなった。
「だから、他の人外たちも暮らせるようにしていったんだ」
「でも……」
僕は、そこで言葉を止めた。




