千年前の選択
局長の目には、悲しみが滲み出ていた。
「人格が穏やかでも、彼女が生まれた理由まで変わるわけじゃなかった」
「……生まれた理由?」
「人の負の感情から生まれた力は、消えなかった。彼女の力は、人の負の感情に触れることで強くなっていったんだ」
僕は顔を上げた。
「ただ、問題はそれだけじゃなかった」
「……何が起きたんですか?」
局長の表情から、わずかに笑みが消えた。
「朧の力は、彼女自身だけに収まらなかった」
「どういうことですか?」
「町にいる他の人外たちまで、次第に不安定になっていったんだ。妖気の流れが乱れてね。力を暴走させる者もいたし、普段なら抱かないような恐怖や怒りに囚われる者もいた」
その言葉に、僕の脳裏へ診療所の光景が浮かんだ。
妖気の滞り。
うまく力を扱えなくなっていた二人。
僕は息を呑んだ。
「その……朧さんは、その後どうなったんですか?」
「うん。私は、彼女をどうするか決めなければならなかった」
その声には、今までよりはっきりとした重さがあった。
「退治することもできたんだろう。陰陽師としてなら、それが一番簡単だった」
「でも……しなかったんですね」
「ああ」
月明かりの下で、その声だけが妙に近く聞こえた。
「だってね。朧は、誰かを憎んで生まれたわけじゃなかったから」
局長は、そこで一度言葉を切った。
「私一人でどうにかしようとしたわけじゃない。白澤さんや白乃さんにも相談したし、他の人外たちにも力を借りたよ」
けれど――と局長は小さく息を吐いた。
「どれだけ手を尽くしても、彼女の力は消えなかった」
人の負の感情を糧にして強くなった彼女の妖気は、周囲の人外たちの妖気まで乱し、心までも不安定にしてしまう。
それは、朧さん自身にも止めることができなかった。
「……朧さんは、それを分かっていたんですか?」
局長は、黙って頷いた。
「だから、討伐命令が下るより前に――彼女は私に頼んだよ」
局長は、しばらく黙っていた。
やがて、足元へ視線を落とした。
「自分を消してくれ、と」
「……」
「私が何度断っても、彼女は同じことを言った」
薪が、ぱちりと音を立てた。
「『私がいると、みんなが苦しむから』って」
僕は、何も言えなかった。
「……あの子はね」
局長の声が、ひどく小さくなる。
「最後まで、自分のことより周りのことを考えていたよ……私には、できなかった」
力なく吐き出されたその言葉を、僕はただ聞いていた。
「私には、彼女をただの災いとして消すことなんて、できなかったんだ」
少しの沈黙。
「だから、私は選んだんだ。……消すのではなく、別の場所へ送ることを」
局長は空を見上げた。
「人の暮らす現世から切り離す。それが、彼女を生かすために必要なことだった」
「……人が、いなければ?」
「ああ。彼女の力は、人の負の感情に触れることで強くなる。だから、人のいない隠り世へ切り離せば、それ以上、力が膨れ上がることはない」
僕は、少しだけ考えた。
「……それまでに抱えてしまった力は?」
「なくならない」
局長は、静かに答えた。
そして社へ目を向けた。
「だから――人間の負の感情が入り込まない場所と、強力な結界が必要だった」
「……それが、隠り世?」
僕も、社を見つめた。
「ああ」
「この場所は、その隠り世を守るための境界なんだ」
その視線を追うように、僕も社へ目を向ける。




