恐怖から生まれた優しさ
僕はその名を繰り返した。
「朧……」
その名を口にしただけで、なぜか胸の奥がざわついた。
「人の負の感情から生まれたものだから、本来なら……凶暴な存在になっていてもおかしくなかった」
局長の声が少し低くなる。
「人に恐れられれば、人を憎むようになる。そうして、いつか誰かを傷つける。……それが自然な流れだったのかもしれない」
けれど、と局長は続けた。
「彼女は、そうならなかった」
「……どうして?」
局長は、すぐには答えなかった。
「……さあ。私にも、よく分からないよ」
そう言って、ほんの少し笑う。
「ただ、私はあの子と話をした。それだけだ」
「それだけ……?」
「うん。それが何かを変えたのかもしれないし、最初からそういう子だったのかもしれない」
そこで一度、言葉を切った。
「千年経った今でも、分からないんだ」
「不思議な子だったよ。私の前では、いつも長い髪の女の姿をしていた」
「……女の人」
「そう。でも、人によって見え方は違った。恐ろしい女に見える者もいれば、老婆に見える者もいた。幼い女の子にしか見えなかった者もいる」
「……怖い存在だったんですか?」
「人にとっては、そうだったのかもしれないね」
少し間があった。
「朧はただ、人から恐れられる。それだけは分かっていたんだ」
僕は黙り込んだ。
人を恐れさせる存在なのに、彼女自身もまた、人に恐れられることでしか自分の存在を知ることができない。
「だから、私は朧と何度も話をしたよ」
局長の声は、少しずつ穏やかになっていった。
「彼女は、生まれたばかりの人間のように何も知らなかった。朝になれば何が起きるのか。季節が変われば何が変わるのか。人はどうして笑うのか。どうして泣くのか――そんなことを、一つずつ尋ねてきた」
「……局長は、それを教えたんですか?」
「ああ。知っていることならね」
「ただ、私が教えるばかりでもなかったよ。朧は、人間には分からないことをよく知っていた」
「……人間には分からないこと?」
「人の恐怖が、どこから生まれるのか。誰かが何を恐れているのか。言葉にされる前の感情まで、彼女には分かった」
「だから、時々ね。私が何も言わなくても、彼女のほうから声をかけてくることがあったよ」
局長が、わずかに笑った。
「『今日は、少し悲しいね』って」
「……悲しい?」
「うん。私が気付いていない、ほんの小さな感情までね」
「人の恐怖から生まれた存在だからなのかな。人の心に生まれる負の感情には、妙に敏感だったよ」
「でも、それは……サトリさんみたいに、心を読むってことじゃないんですよね」
「ああ。そんな器用なものじゃないよ」
「ただ、誰かが抱えているものに、自分まで触れてしまうんだ。悲しければ悲しくなる。怯えていれば、怯えが伝わってくる」
「……それじゃあ」
「うん。誰かを傷つければ、その痛みまで自分に返ってくる」
僕は息を呑んだ。
「それが、彼女にとっては苦しいことだったのかもしれない。でも……だからこそ、誰かを傷つけることを嫌うようになったのかもしれないね」
僕は、少しだけ分かった気がした。
朧は、人の恐怖から生まれたからこそ、人の痛みに近すぎるのかもしれない。
誰かを傷つけることは、彼女にとって他人事ではない。
それは、そのまま自分の痛みになる。
だから、優しいというより――
最初は、優しくならざるを得なかったのかもしれない。
「……不思議な関係だったんですね」
僕がそう言うと、局長はしばらく黙っていた。
「そうだね」
やがて、静かに答えた。
「少なくとも、私の知る朧は、とても優しい子だったよ」
僕は何も言わなかった。
朧さんは、人の恐怖から生まれた。
それなのに、人の痛みに誰よりも近い。
人の恐怖から生まれた彼女と、その存在に向き合い続けた陰陽師。
本来なら交わるはずのなかった二つの存在が、互いの知らないものを少しずつ分け合っていた。
「でもね」
局長の声が、静かに落ちる。




