名もなき存在
局長は振り返ると静かに答えた。
「……ただの、出来の悪い陰陽師さ」
僕は、しばらく局長の顔を見つめていた。
「陰陽師って……あの陰陽師ですか?」
「うん。君が想像しているものと、そう違わないよ」
局長は、ほんの少し口元を緩めた。
「当時の京都には、人の暮らす町のすぐそばに、あやかしたちが暮らしていた」
それだけ言って、局長は黙った。
まるで、言葉よりも先に記憶を探しているようだった。
「今よりずっと近かったんだ。人とあやかしの距離はね」
「……そんなに?」
「ああ。もちろん、仲良く暮らしていたわけじゃない。争いもあったし、互いに恐れることもあった」
一度言葉を切ってから、局長は続けた。
「それでも、互いの存在が当たり前に生活の中にあったんだ」
「では、局長は……」
「陰陽師として、両方を見ていたよ」
その声に、ほんの少し苦笑が混じる。
「人の世で起きることだけじゃない。あやかしの中で起きることにも、首を突っ込んでいた」
「それが、出来の悪い理由ですか?」
「そういうこと」
局長は肩をすくめた。
「人間だけを見ていれば、もう少し楽な人生だったんだろうね」
その言葉に、僕は少しだけ笑った。
「でも、一度知ってしまったら、見ないふりもできなくてね」
「……あやかしたちを?」
局長は前を向いたまま答えた。
「彼らにも暮らしがある。悩みがある。守りたいものがある」
短い言葉だった。
けれど、その一つ一つには千年分の重みがあった。
「それが、私の人生を変えることになった」
僕は黙って、その先を待った。
「人とあやかしが近かったからこそ――人間たちの中には、無意識の恐怖や、さまざまな負の感情が生まれやすかった」
「負の感情……」
「夜道で何かに出会うかもしれない。山には人ならざるものがいる。自分たちには理解できない存在が、すぐそばにいる」
局長は小さく息を吐いた。
「人の負の感情というものはね、あやかしの世界では、時に妖気を生む。一人の人間が抱いた怒りや悲しみなら、何ということはない。けれど、大勢の負の感情が集まれば別だ」
しばらく、薪の爆ぜる音だけが聞こえた。
「……そして、ある時。積み重なった負の感情は、ただの妖気ではなくなった」
局長が僕を見る。
「最初は、ただの妖気の塊だと思っていた。けれど、やがて人の形を取り、言葉を理解し、自分の意思で動くようになった」
「そんなことが……」
「――私は、その存在を『朧』と呼んだ」




