隠り世の原点
◇
辿り着いたのは、京都の街外れにある静まり返った古い神社だった。
車を降り、局長の後を追って境内の一番奥にある古い石の鳥居へと向かう。
「鳥居をくぐるとき、少しめまいがするかもしれない。踏み外さないように」
「え……?」
一歩、鳥居をくぐった瞬間――ふっと、周囲の空気が一変した。
街の灯りが、消えた。
いや。
消えたように見えた。
さっきまで確かにそこにあった京都の夜が、まるで薄い膜の向こうへ遠ざかっていく。
代わりに鼻をくすぐったのは、薪の燃える匂いだった。
湿った土の匂い。
古い木の匂い。
そして、肌の奥まで染み込んでくるような、濃密な妖気。
「……ここは」
僕は思わず足を止めた。
鳥居の奥には、小さな社があった。
古びた木造の社殿。
黒ずんだ柱。
長い年月を経たように見える石畳。
けれど、不思議だった。
朽ちているわけではない。
古いのに、まるで時間そのものから切り離されてしまったかのように、そこだけが静かに残っている。
その社を中心に、内側には道が続いていた。
僕はゆっくりと顔を上げた。
夜空には、満天の星が広がっている。
そして、その中央には――見たこともないほど大きな月が浮かんでいた。
「……月」
思わず呟く。
星も、現代の京都では考えられないほど近く見えた。
まるで、手を伸ばせば届いてしまいそうだった。
薪の爆ぜる音が、遠くで響いている。
風はない。
それなのに、木々の葉はかすかに揺れていた。
濃密な妖気が肌を撫でる。
どれも初めて感じるはずなのに――不思議と懐かしかった。
この場所には、何かが残っている。
ただの建物じゃない。
まるで、遠い昔の時間そのものが、この結界の中に閉じ込められているような――そんな感覚だった。
「……ここは、私の『隠り世』の原点だよ」
局長が静かに言った。
「千年前――この場所で、私は人間であることをやめた」
「……千年前」
その言葉に、先ほどの白澤さんの声が脳裏をよぎる。
――いい時代になったものさ。千年前には、こんな美味いケーキはなかったよな。
あの時は冗談だと思っていた。
けれど、違った。
あの人たちは、本当に千年前を知っているのだ。
ここは、千年前の京都なのだろうか。
いや――京都そのものではない。
千年前の「あの夜」だけが、現代から切り離されて残されているのだ。
「白澤さんは、冗談めかして言っていたけれどね」
局長は夜空を見上げたまま、静かに続けた。
「私が人間であることをやめたあの夜から、この場所の時間は止まったままなんだ。……人の世とあやかしの境界が、まだ今ほど明確ではなかった頃の姿のままね」
何も言葉が出てこなかった。
ただ、目の前に広がる夜の景色を見つめる。
こんなにも静かな場所で、千年前に誰かの人生が変わった。
そして、その痕跡が今も消えずに残っている。
「そして私は、あの夜、この土地と結びついたんだ」
「……この土地と?」
「ああ」
局長が僕を見る。
その瞳には、いつもの穏やかな色がなかった。
「隠り世を維持するために、私はこの土地を離れられなくなった。……今でもね」
胸の奥が、ざわりと揺れた。
局長が言っていた。
――この街で……何かが、少しずつ動き始めている。
もし、それが本当なら――。
千年前から、この土地に結びついてきた局長もまた、その変化を見続けているのだろう。
そして今――。
千年前に止まったはずの何かが、再び動き出そうとしていた。




