動き始めた異変
僕たちは診察室から、奥にある白澤さんの書斎へ移動した。
壁一面の本棚には、古い和装本や分厚い洋書、生薬の文献が整然と並んでいる。薬草の独特な香りと紙の匂いが満ちた、どこか浮世離れした部屋だった。
部屋の中央にはテーブルが置かれ、使い込まれた黒革のソファへと促されるまま、僕と局長は並んで腰を下ろす。
白澤さんは部屋の奥にある重厚な木製の机へと向かい、背もたれの高いオフィスチェアに静かに身体を預けた。
白乃さんが手慣れた動作で、昨日初音さんが届けたコーヒーを淹れてくれた。この診療所の勝手がよく分かっているようだった。
カップを受け取った白澤さんは、少し気まずそうに視線を逸らしながら「……ありがと」と短く呟く。
白乃さんもソファに座り、湯気とともに香ばしい香りが漂う静寂の中、最初に口を開いたのは局長だった。
「で、どうだったんですか?」
「……言っておくが、あれはあくまで応急処置だ。彼らの体内で妖気が滞っているのは、彼ら自身の器のせいじゃない」
「えっ……? どういうことですか、白澤さん」
僕は驚いて聞き返す。
「外からの影響だよ」
白澤さんのカップを置く小さな音が、しんと静まり返った部屋に響く。
「なぜわかるのですか?」
僕が咄嗟に疑問をぶつけると、白澤さんはため息交じりに僕を見つめた。
「相変わらず察しが悪いね。種族も体質も違う二人同時に、まったく同じ『妖気の滞り』が起きているんだ。彼ら個人の病気や体調不良じゃない。外部の環境に問題があると考えるのが自然だろ」
白澤さんはそう言いながら、コーヒーカップを片手に古い書籍の並んだ本棚へ歩き出す。
「彼らは『異常な妖気の歪み』のある場所には行っていないと言った。ということは、彼らが気づかないほど、自然に入り込んでいるのかもしれない。あるいは――街全体に、すでに何か異変が広がっているのかもしれない」
白澤さんの言葉に、それまで静かに話を聞いていた局長と白乃さんの表情が、わずかに硬くなった。
「街全体に……」
局長が落ち着いた、けれど低い声で呟く。
「可能性の話さ。ただ、もしそうなら……被害を受けるのはあの子たち二人だけじゃ済まないかもね」
白澤さんはそう言いながら、空になった自分のカップを白乃さんの方へ少し押しやった。
「すまないが白乃、もう一杯淹れてきてくれないか。そういえば、患者から菓子の差し入れをもらったんだ。それも持ってきておくれ」
「もう、人使いが荒いんだから……」
白乃さんは呆れ顔でカップを受け取ると、診察室へと向かっていった。
白澤さんは白乃さんが部屋を出たのを確認すると、小さな声で話はじめた。
「……瀬尾くん、君が懸念していた件、事態は予想より早く進んでいるかもしれない」
(……局長が懸念していた件……?)
背筋にすっと冷たいものが走った。
僕が聞いていい話なのか、分からなかった。
それでも僕は、二人の会話から耳を離すことができなかった。
白澤さんの一言に、局長は険しい顔で深く眉間にシワを寄せる。
「妖気の感受性が高い者から、先に影響が出始めているのかもしれない」
局長は険しい顔のまま、窓の外へ目を向けた。
「この街で……何かが、少しずつ動き始めている」
その言葉を聞いた白澤さんが、ふいに僕へ視線を向けた。
フッと小さく鼻を鳴らす。
白澤さんは本棚の前で足を止めた。
「……で、君はどうする? 聞こえていたんだろう、槇尾くん」
「え……っ」
心臓が跳ね上がった。傍観者のように聞いていたのを見透かされているようだった。
「白澤さん、彼には——」
「誤魔化す必要はないさ、瀬尾くん。……いいかい、白乃にはまだ余計な心配をさせたくない。けれど、局のやつが何も知らないままじゃ、守りたいときに守りたいものを守れない」
白澤さんは本棚の前で、僕の目をじっと見つめ返す。
「街で何かが起こっている。君の身近にいる——例えば初音くんやサトリくん……繊細な子たちの変化を見逃さないように」
「……! はい……っ」
自分はまだ蚊帳の外だと思っていた甘さが、一瞬で吹き飛ぶ。手にじっとりと冷や汗が滲んだ。
――その時、ギーと扉のノブが回る音が響いた。
「――あら、何やら真面目なお顔で、男三人で何のお話しかしら?」
カチャンと、トレーに乗ったカップと皿の音をさせながら、白乃さんが戻ってきた。
「いやなに、若いのに『もっとしっかり現場を見ろ』と説教していたところさ」
白澤さんは何事もなかったかのように軽く肩をすくめ、いつもの食えない笑みに戻っていた。
「……まったく、昔から意地が悪いんだから」
白乃さんは呆れ顔でトレーをテーブルに置くと、香ばしいお茶とケーキを並べた。
白澤さんは平然とした顔でカップを手に取り、一口啜る。
「いい時代になったものさ。千年前にはこんな美味いケーキはなかったよな、瀬尾くん」
「そうですね」
また白澤さんが大袈裟なことを言っている。
僕はその時、それくらいにしか思っていなかった。
「そうだろ。まあ、若い奴にはこれくらいハッパをかけておかないとね」
「……ふん、どうだか」
白乃さんは疑わしそうな目を向けつつも、それ以上は追及せず自分の分のお茶に口をつけた。
僕は必死で心臓の鼓動を抑え、何事もなかったかのように笑みを浮かべた。白澤さんの食えない視線がちらりとこちらを掠めたが、僕は気づかないふりをした。
それからしばらく、表面上は和やかな談笑が続いた。けれど、局長と白澤さんの交わす目線には、終始張りつめた緊張感が漂っていた。
白乃さんが空いた食器を下げに立ったわずかな隙に、局長が静かに白澤さんへ向き直る。
「白澤さん。今後も、今日のような患者や異変の報告があれば、すぐに僕へ連絡をください」
「分かっているよ。瀬尾くんも、何か気になることがあれば、早めに私へ知らせてくれ。……それから、槇尾くん」
白澤さんが不意に僕の名を呼ぶ。
「何か変化があれば、すぐ瀬尾くんや僕に伝えるように」
「……分かりました」
白澤さんは僕をしばらく見つめ、それから小さく息を吐いた。
局長もそれ以上、何も言わなかった。
街全体の警戒や調査は、局長たちが動く。
僕がすべきなのは、まず身近にいる大切な仲間たちの変化を見逃さないこと。
千代さんも心配だ。
大きなことは、僕にはまだ分からない。
けれど、自分にできることまで見失う必要はない。
やがて白乃さんが戻ってきた。
「――さて、と。初音ちゃんがお店で待ってるから、そろそろ帰ろうかしら」
白乃さんがパン、と一つ手を叩いて立ち上がった。
午後に来てから、時間が経ち辺りは夕暮れになっていた。
「白澤、ちゃんとご飯食べるのよ。散らかしっぱなしにしないでね」
「はいはい、分かっているよ。はよ初音くんにケーキ持って帰りな。君たちも、サトリくんに持っていきな」
呆れ顔で声をかける白乃さんに白澤さんはひらひらと手を振り、白乃さんは手早く自分の鞄を手にした。
「――では、お邪魔しました」
診療所の扉を開けると、カランと鈴が鳴り、外の冷たい空気が肌を刺した。
一人残る白澤さんに見送られ、僕らは三人で車に乗り込む。
車を出発させ、窓の外を流れる見慣れた商店街の風景を眺める。けれど、すっと隙間から入り込んできた夕風の中に――ほんのわずか、焦げ付いたような嫌な妖気の異臭が混ざっていた気がした。
(この街で……何かが、少しずつ動き始めている)
助手席で静かに目を伏せる局長。
「初音ちゃん、今頃お店で首を長くして待ってるわね。ケーキのお土産、喜んでくれるかしら」
後部座席から楽しそうに語りかける白乃さんの声が、車内の空気をふっと和ませる。
お店の前に車を停めると、白乃さんは嬉しそうにケーキの箱を抱えて降りていった。
「じゃあね、二人とも気を付けて帰るのよ!」
店内から初音さんの明るい声が聞こえてきて、車内の空気がふっと緩む。
白乃さんが店に戻ったなら、今日のところは初音さんのことも安心だ。
パタンとドアが閉まり、車が再び走り出すと――車内は急速に静まり返った。
「……良治くん。少し付き合ってくれないか」
局長の指示で車を走らせた。




