診察の時間
薬草や生薬の匂いが漂う静かな診療所の奥から、早くも面倒くさそうな足音が近づいてくる。
どうやら、こちらが来るのを待ちかねていたらしい。
「やっと来たか。大人数でぞろぞろと……狭い診療所なんだから、静かにしておくれよ」
白衣をだるそうに羽織った白澤さんが、眼鏡の枠を指先で持ち上げながら、僕たちを順番に見遣る。
「相変わらず愛想のない出迎えね。昨日コーヒーを持ってきてあげたのに、お礼の一言もないのかしら」
「コーヒーは初音くんから受け取ったよ。……まあ、二週間も遅れて届いたやつの礼を言うほど、私は酔狂じゃないがね」
「ふふ、相変わらず仲が良いねぇ、二人は」
刺々しい応酬を、後ろから入ってきた局長が穏やかな笑みでいなす。
白澤さんはチッと小さく舌打ちすると、カウンターの奥にある診察スペースを示した。
「無駄口を叩きに来たなら帰りな。……早速始めるよ。まず、葉月与三郎さん。こっちに来なさい」
「あ、はい。よろしくお願いします」
与三郎さんが少し緊張した面持ちで、促された丸椅子に腰掛ける。
白澤さんは与三郎さんの顔色や全身の妖気の流れを確かめるように、じっと見つめた。
「ふむ……顔色は悪くないが、妖気の巡りがずいぶんと悪い。手を見せてごらん」
「……はい」
与三郎さんが意を決したように両手を差し出す。
(……!)
その瞬間、僕は息を呑んだ。
顔や腕、身体の輪郭は人間の姿を保っているのに、手だけが――ふさふさとした毛に覆われた、見事な狸の手になっていた。
与三郎さん自身も、気まずそうにその手を見つめる。
「ええ、実は……顔とかは何とか頑張ったんですが、末端までコントロールできなくて……」
「なるほどね」
白澤さんは驚く様子もなく、狸の手をしばらく観察した。
「また厄介な症例を持ち込んでくれたものだ」
口では吐き捨てるような嫌味を言いながらも、白澤さんの手つきは驚くほど丁寧だった。
手首に優しく触れ、妖気の脈を確かめる。その表情から、さっきまでの気だるげな雰囲気が少しずつ消えていった。
「白澤さん……これは、何か病気なんでしょうか?」
僕が不安を抑えきれずに尋ねる。
「槇尾くん、焦らない」
白澤さんは短く答えた。
「まだ、病気とは言い切れない。……ただ、普通じゃないことだけは確かだ」
その言葉に、診療所の空気がわずかに重くなる。
「次。河野青童さん」
「はい」
河野さんは、与三郎さんの隣にある丸椅子へ腰掛けた。
白澤さんは、与三郎さんの時と同じように河野さんの手首へ指を添え、静かに妖気の流れを探っていく。やがて目を閉じ、しばらくじっとその感覚に意識を集中させた。
しばらくして、白澤さんが小さく眉を寄せた。
「……こちらも、身体そのものに大きな異常はないな。水の中で沈むようになってしまったと言っていたが、妖気の巡りが妙なことになっている」
河野さんは自分の手を見つめ、それから胸元にそっと手を当てた。
「そうですか……」
その声には、安堵よりも戸惑いの色が濃かった。
白澤さんは二人を交互に見つめると、棚からいくつかの薬草を取り出し、小さな香炉で火を焚き始めた。
部屋の中に、どこかすっと鼻を抜ける薬草の香りがゆっくりと広がっていく。
「さて……これは少し厄介かもしれないね。……妖気の巡りがおかしい。何かが引っかかっているような感じだ」
河野さんが不安そうに眉を寄せた。
「何かに?」
「ああ。だが、それが何なのかはまだ分からない」
白澤さんは与三郎さんの手首と河野さんの額にそっと手を当てると、すっと自分の妖気を流し込んだ。
「……あれ?」
与三郎さんが自分の手を見つめた。
「人化できてる……」
与三郎さんが驚いたように自分の両手を見つめ、歓声を上げた。
「一時的に私の妖気で巡りをよくしただけだよ。根本的な解決にはなっていない」
そう言いながら白澤さんは棚から生薬を取り出し、薬研ですり潰しながら、二人に言葉を続けた。
「二人とも、ここ最近で『あやかしの力が集まる場所』とかに近づいたり、何らかの異常な妖気の歪みに触れた覚えはないかい?」
「異常な妖気……」
河野さんと与三郎さんは顔を見合わせ、首を傾げた。
「いえ、特に怪しい場所に行った記憶はありませんが……」
「そうか――」
白澤さんはそれ以上追及せず、すり潰した薬を手際よく包み紙へと小分けにしていった。
河野さんはここに池がないため、水に入ったときの状態までは確認できないものの、先ほどよりずいぶんと顔色がよく見える。
「二人とも……香と薬を出すから、帰ったら朝晩しっかり香を焚いて薬を飲むこと」
白澤さんは出来上がった包み紙の薬と香を二人に手渡すと、眼鏡の枠を指先で静かに押し上げた。
「今日はこれで帰ってもらって構わない。けれど、まだ完全に治ったわけではないから用心すること。河野さんは水に入るときには、浅いところから試すようにね」
「……ありがとうございます、白澤先生!」
「みなさんも、付き添っていただきありがとうございました」
二人は深々と頭を下げる。
二人の体を起こすように、白乃さんが優しく肩に手を添える。
「よかったわね。この人、愛想はないけど腕は確かだから」
「ほら、病人はさっさと帰って休みな」
白乃さんの言葉を遮るように、白澤さんがまくしたてる。
その様子に、局長と僕は必死で笑いを堪えた。
こちらを睨む白澤さんの視線に気づき、僕は慌てて目を逸らした。
二人は心底安堵した様子で、何度も礼を言いながら、渡された薬と香を大切そうに抱えて診療所を後にした。
カラン、と扉の上の鈴が小さく鳴り、再び診療所に静寂が戻ってくる。
「……とりあえず、薬をありがとう、白澤」
二人の足音が遠ざかるのを見届け、白乃さんが静かに一歩前へ出た。
「お礼はまた今度、美味いお茶でも持ってきてあげるわ」
「……結構だね。文句の出ないまともな煎餅でも添えてくれるなら、考えてやらんでもないが」
そう言いながらゆっくりと僕たちの方へ振り向いた。
白澤さんは、しばらく何も言わなかった。
「……さて。あの子たちを帰したところで、本題に入ろうか」




