異変の兆し
局に戻ると、局長はいつものように机に向かっていた。
サトリさんもすでに戻っており、伏見さんからいただいた秋の味覚も、それぞれの分をダンボールに分けられていた。
僕は白澤さんから預かった薬を局長の机へ置く。
「局長、これ。白澤さんから預かってきました」
「ああ、ありがとう。助かったよ」
局長は薬の包みを受け取ると、軽く中身を確かめた。
「白澤さん、元気そうだった?」
「はい。……まあ、相変わらずでした」
「ふふっ。そうか」
そのやり取りが終わると、サトリさんが初音さんへ声を掛けた。
「初音さん、お疲れ様です。これ、白乃さんと食べてください」
「すごい。こんなにたくさん……」
初音さんが嬉しそうに箱を覗き込む。
「白乃さん、毎年伏見さんの秋の味覚を楽しみにしてましたから」
「そうだったんですね。サトリさん、ありがとうございます」
「いえいえ。白乃さんにも喜んでもらえたら嬉しいです」
初音さんが箱を大切そうに抱えた。
その様子を見ていた局長が、ふと思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ。良治くん」
「はい?」
「人外からの相談が何件か来ていてね。明日、一緒に対応をお願いできるかな?」
「分かりました」
僕は局長から渡された報告書を受け取り、目を通していく。
一件目は、狸の葉月与三郎さん。
以前、商店街で会った葉月玉さんの息子さんだ。
人化が得意なことで知られていた。けれど、ここ最近、どういうわけか人化がうまくできなくなっているという。
「……人化が、できなくなった?」
思わず呟く。
これまで問題なく使えていた能力が、突然うまく使えなくなる。
それだけなら、体調不良や一時的な能力の乱れという可能性もある。
けれど――。
もう一件の報告書に目を移した。
河童の河野青童さん。
初音さんに、この人外適応管理局のことを教えてくれた人だ。
相談内容を読んだ瞬間、僕は眉を寄せた。
「……泳げなくなった?」
河童にとって、泳ぐことはただの得意分野というわけではない。
生命線とも言えるほど、身体と深く結びついた能力だ。
それが、最近になって水に入っても底へ沈んでしまうようになったという。
「局長。これ……」
僕は二枚の報告書を並べて見せた。
「どちらも、今まで普通にできていたことができなくなっていますよね」
「うん」
局長は僕の手元を覗き込み、静かに頷いた。
「僕も、そこが少し気になっているんだ」
いつもの穏やかな声だった。
けれど、その目にはほんのわずかに、何かを警戒するような色が浮かんでいた。
「それでね。明日二人には一度、白澤さんに診てもらおうと思ってるんだ」
「白澤さんに、ですか?」
「うん。能力そのものなのか、それとも身体の問題なのか、一度きちんと診てもらった方がいいと思ってね」
「……河野さん、大丈夫でしょうか」
隣で話を聞いていた初音さんが、少し不安そうに顔を上げた。
「まだ何とも言えないね。ただ、今のところ急激に悪化しているわけではないそうだよ」
「そうですか……」
初音さんはほっとしたように息を吐いたものの、どこか気がかりそうな表情を残していた。
「河野さんには、以前とても親切にしていただいたので……」
「そうですよね」
僕も頷く。
初音さんは少し迷うように僕を見た。
「……私も、何かお手伝いできることはないでしょうか?」
「今回は大丈夫だよ」
僕が答えるより先に、局長が柔らかく笑った。
「今回は僕と良治くん、それから白乃さんの三人で行くことにしようと思っているんだ。白乃さんも白澤さんも、この土地で長い年月を過ごしてきたからね」
「白乃さんも……?」
「ああ。二人の様子を知っておきたいそうだよ」
「そうだったんですね」
初音さんは少し安心したように頷いた。
「では……お気をつけて行ってきてくださいね」
「うん。ありがとう」
局長が穏やかに笑う。
「雪原さんは明日、スーパーのお仕事はお休みだったよね?」
「はい」
「それなら、白乃さんをお借りする間、お店のことお願いできるかな? サトリは局で留守番頼むよ」
「はい」
二人が頷く。
「良治さんも、無理はしないでくださいね」
「分かっていますよ」
「本当に?」
「……本当に」
少しだけ念を押すような初音さんの視線に、僕は苦笑した。
「白澤さんに診てもらうだけですから。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
「ふふ……そうですね」
初音さんはようやく笑った。
けれど――。
その日の帰り際、僕がふと見ると、局長が二枚の報告書をもう一度手に取っていた。
いつもと変わらない穏やかな表情。
けれど、その目には、何かを確かめようとしているように見えた。
この時の僕はまだ、それが二人だけの問題ではないことを知らなかった。




