名を得る日
やがて彼女は、その冷たく張り詰めた空気をそっと溶かすように、ぽつりぽつりとこれまでのことを話し始めた。
「私はずっと、人里離れた山で暮らしてきました。人間を恐れ、人間も私を恐れていた。それが正しいのだと思っていました」
僕はその紡がれる言葉をこぼさないよう、静かに手帳へペンを走らせる。
「ある日、人間が山へ入ってきたので、いつものように吹雪を起こしました。そのまま立ち去ってほしいと……。」
彼女の瞳の奥に、淡い光が揺れた。
「もう、何百年も昔のことです――魔が差した、とでも言うのでしょうか。一度だけ、私が命を助け、関わりを持った人間がいました。……ですが、その人は山をおりました。その後、助けた人とは、別の人間が私に会いに来たのです。」
彼女は小さく俯く。
「私は長い間、人の世界との関わりを避けて生きてきました。けれど今は……人の営みを知りたいのです。良い部分も、悪い部分も含めて、すべてを」
二人の間に、深々と降る雪のような沈黙が広がった。
――今、僕が深く踏み込んで聞けるのはここまでなのだと、直感的に悟った。彼女が山を下りるに至った本当の理由は、これから時間をかけて、ゆっくりと紡がれていけばいい。
僕は、少しだけ姿勢を正した。
「ありがとうございます。雪女さんのこれからを、少しずつ一緒に考えていきましょう」
彼女の肌はひんやりと冷たいはずなのに、その瞳の奥には、それとは違うどこか暖かな色が見えた。
「ではまず、こちらでの『仮名』から決めましょう」
僕は手元の資料をめくりながら、なるべく難しく聞こえないよう言葉を選ぶ。
「人間の世界には『戸籍』という、個人を公的に証明する制度があるんです」
彼女は小さく首を傾げた。
「もちろん本来、人外である皆様はそのまま登録できないのですが……新しく人外用の戸籍を立てることで、銀行口座の開設や、アパートの契約、就職など人の社会で生活するための準備ができるようになるんです」
彼女は静かに瞬きを繰り返した。
「人の中で生きるには、多くの決まりごとがあるのですね。この場所を教えてくれた河童さんも、現世の暮らしについて語っておりました。……確か、『マイナンバー』ですとか、『確定申告』ですとか。私には、まだよく分からない呪文のようでしたが」
それを聞いて、僕は思わず小さく苦笑してしまった。あの河童さんも、これから現世に来ようという彼女に、ずいぶんと現実的な世知辛さを教え込んだものらしい。
現代文明に触れてこなかった彼女にとって、それらは不可思議な呪文のように響いているのだろう。
困ったように眉を寄せる彼女を前にして、僕は、彼女が人の世で生きていけるよう、ひとつずつ足場を整えてあげたいと思った。
「雪女さん。これから使う『仮名』に、何かご希望はありますか? 例えば河童さんは、河野青童という名前を使っているんです。彼のように妖怪の名にちなんだ仮名にする方もいますし、何か思い入れのある言葉から付ける方もいらっしゃいます」
彼女はしばらく伏し目がちに考え込み、やがて静かに口を開いた。
「では……苗字は雪原。雪の積もった平原が好きでしたので。名前は初音がよいです」
僕は彼女を真っすぐに見つめ、「良い名ですね」と静かに伝えた。
心から、そう思った。苗字は彼女がこれまで過ごしてきた時間を思い起こさせ、名前には、これから人として新たな一歩を踏み出そうとする、彼女の意思が静かに宿っているように思えたからだ。
――名前が決まれば、次は戸籍の作成へと移る。
妖怪は人間のように出生届を出せないため、『就籍届』という形で新たな戸籍を作成することになる。
さらに人外であることを区別・記録するため、就籍届の中でも『人外就籍届』という特殊な書類を提出しなければならない。
これが受理されて初めて、彼女たちは人間社会の法律や制度の保護を受けられるようになるのだ。
僕は余韻を惜しむように一度息を吐き、各種申請書が保管されている収納庫へ向かった。
棚から『人外就籍届』を取り出し、席へ戻る。
書類を、彼女――初音さんから見やすいように机の上に広げ、記入欄をひとつずつ指で差し示しながら説明していく。
初音さんは緊張した面持ちで、手渡されたボールペンをぎこちなく握りしめ、『人外就籍届』をじっと見つめていた。
「では、今日の日付と、先ほど決めたお名前を記入してください」
僕の言葉に、彼女はこくりと力強くうなずき、慣れない手付きでゆっくりとペンを滑らせていく。
自分の名前を書き終えた初音さんの表情は、先ほどの張り詰めたものから一転して、新生活への希望や期待をはらんだ、柔らかく穏やかなものへと変わっていた。
「お疲れ様です。では次に、こちらの『種族』の欄です。人外の皆様には、まず大まかな種族を記載していただいているんですよ。これとは別に、後ほど『能力届出書』というものも記入していただくことになります。」
初音さんは『雪女』と記入し、僕の指示通り、ひとつひとつの項目を正確に、確実にこなしていく。
ふと見ると、彼女の白い肌には汗一つかいていないのに、前髪を軽くかき分けて額をぬぐう仕草をしていた。どうやら彼女なりに、相当緊張していたらしい。そんな人間味のある姿に、僕は思わず口元が緩みそうになった。
すると、僕の視線に気づいたのか、彼女は動きを止めてきょとんとした表情を見せた。
「あ、すみません。事務的な説明ばかりになってしまって、緊張されましたよね」
「いえ。河童さん……河野さんから、役所の手続きはとても大変だと聞いていましたので。でも、槇尾さんが優しく丁寧に教えてくださるので、とても心強いです」
そう言って小さく微笑む彼女の、真っ白な肌がほのかに桜色へと染まっていた。
僕の対応で、彼女の不安を少しでも和らげられたのであればこれほど嬉しいことはない。
胸の奥に灯った温かさをそっと仕舞い込み、僕は手元の書類に視線を戻した。
『人外就籍届』の記入も、あと少しだ。
「では雪原さん、次が最後の項目になります。ここに本籍と、現在の住所を記入します。本籍については、人外の皆様はすべて、こちらの『人外適応管理局』の住所を記載していただく決まりになっているんです。現世において皆さんが、ここを『第二の故郷』として安心して頼れる場所にしたい。それが、僕たち管理局の役目でもあるんですよ」
口にしてから、少し気恥ずかしくなって「……なんて、ちょっと大袈裟でしたかね」と僕は小さく苦笑した。
彼女は住所の記載された紙を見つめながら、一字一字、丁寧に筆を滑らせていく。
「……『第二の故郷』、ですか。いいえ、とても温かい言葉です。見知らぬ土地で迷子にならずに済むのだと、救われるような気持ちになりました」
ペンを動かしながら、初音さんが小さく、慈しむようにその言葉を繰り返した。




