新しい一歩
雷雲が過ぎ去り、辺りが明るくなる頃、入口の扉が開いた。
古びた扉の重たい音を残し、その隙間からひんやりとした空気が流れ込んでくる。
長い髪を揺らし、六月だというのに肩を出した涼しげな装いで、彼女は立っていた。
僕が思い描いていた“雪女”とは、あまりにもかけ離れている。
白さでも、冷たさでもない――むしろ、どこか生々しい温度をまとっていた。
僕の考えをよそに、彼女は戸惑いを滲ませたまま、扉の前で小さく会釈した。
僕は来客カウンターの横にある『相談スペース』というプレートが下がった席へと彼女を案内した。
「初めてのご利用ですね?」
緊張させないよう、できるだけ優しく問いかけた。
彼女は伏せていた目をゆっくりと上げ、声にならない吐息のような音と共に、小さく頷いた。
「本日担当させていただく、槇尾良治と申します。よろしくお願いしますね、雪女さん」
僕は首から下げた身分証を軽く前に示しながら、深くお辞儀をした。それから彼女に優しく着席を促し、僕自身も向かい側の席へと腰を下ろす。
「まず、ここは『人外適応管理局』です。雪女さんのように、人ではない方々が人間の世界で安心して暮らせるよう、お手伝いをしている場所なんですよ」
彼女は少しほっとした表情を見せたものの、不安の色まではまだ消えていない。
そこへ、サトリさんが二人分の湯呑みを載せたお盆を持って現れた。僕たちの話を遮らないよう、目元だけで優しく微笑みながら、湯気の立ったお茶を机へとそっと置く。
(……雪女さんだから、本当は冷たいお茶の方がよかったかしら)
サトリさんの細やかな気遣いに満ちた思念が、僕の頭の中へふっと流れ込んできた。
さすがはサトリさんだ。僕は心の中で(大丈夫ですよ、ありがとうございます)と小さく念じ返す。
それから意識を目の前の現実に引き戻し、机の上に広げた資料へと視線を落とした。
一つ息をついて、不安そうに僕を見つめる雪女さんへと、改めて向き直る。
「もう少し詳しくご説明しますね。まず、当管理局は国家管轄の組織となります。手続きなど少し堅苦しい点もございますが、こちらで生活していくための仮名を決め、戸籍を発行し、さらには仕事や住居の斡旋なども行っているんですよ」
「私のような妖怪でも、人の世界で暮らしていけるのでしょうか……」
初めて耳にした彼女の声は、雪解け水のように澄んでいた。
「ええ、ご安心ください。九尾さんや座敷わらしさんをはじめ、多くの方々がそれぞれの特性を活かして現世で生活されています。接客業に就く方もいれば、工場や研究施設など、人では難しい環境で働く方も少なくありません」
一呼吸置いて、僕は言葉を続ける。
「雪女さんの場合ですと、どうしても暑さは苦手かと思いますが、たとえば低温環境での作業や、冷蔵・冷凍施設のバックヤード業務などで生計を立てていくことも十分可能です」
具体的な生活を思い描けたのだろう。彼女の表情から、張り詰めていたものが少しずつほどけていった。
サトリさんの淹れてくれたお茶を僕が一口すすると、彼女も真似るように細い指先を湯呑みへ伸ばした。湯呑みの温もりが、彼女のひんやりとした指先を優しく温めていく。
その穏やかな様子に安堵しつつも、僕はひとつ、確かめておきたいことがあった。
――彼女が、この世界で生きていくと決めた理由だ。




