一枚の写真と旅立ち
『……亡くなる少し前に、この写真を家族に渡したいって言ってたの』
カメラから伝わってきた記憶を、サトリさんが静かに受け止める。
それは、まだ信之さんが元気だった頃の記憶だった。
あの日、家族みんなで撮った一枚を眺めながら、信之さんは何度もその写真に目を落としていた。
『みんなに、渡したいな』
その声と一緒に、カメラの中へ残された一枚の写真が浮かび上がる。
サトリさんの思念に、微笑むような気配が混じった。
『……それを、ずっと覚えていたのね』
カメラから返ってくるのは、言葉ではない。
ただ一枚の写真と、その写真を家族に渡してほしいという、信之さんの想い。
そして――その願いを、今も手放さずにいる小さな心。
『だから、波多野さんに伝えたかったのね』
サトリさんの思念に応えるように、カメラのそばでかすかな光がまたたいた。
言葉にはできない。
人の姿にもなれない。
それでも、この子はずっと覚えていた。
信之さんが大切にしていた一枚の写真。
そこに写る家族の姿。
そして――その写真を、いつか家族に渡したいと願っていたことを。
カメラに残されていたのは、写真だけではなかった。
その一枚に込められた、信之さんの温かな想いまで、この子はずっと抱えていたのだ。
『でも……付喪神になったばかりだから、人の姿になることも、言葉を使うことも上手にできなかったの』
だから、光だったのだ。
だから、声だったのだ。
自分がここにいること。
そして――残された写真を見つけてほしいこと。
それを伝えるために、この家で最も輝いていた頃の笑い声を、何度も何度も呼び起こしていた。
波多野さんが涙を拭いながら、カメラを見つめる。
「……このカメラが、何か伝えようとしていたんですか?」
サトリさんが、ゆっくりと振り返った。
「お父さまが、家族に渡したかったものがあるみたいです」
「家族に……?」
「はい。この子が、それをずっと伝えようとしていました」
波多野さんは、涙の残る瞳で呆然とカメラを見つめた。
やがて、サトリさんの視線を追うように、古い机へと目を向ける。
「……あの机?」
「ええ」
波多野さんが、ゆっくりと机へ歩み寄る。
「ここは……まだ片づけていなくて」
震える手で、一番上の引き出しに手を掛ける。
けれど、すぐには開けなかった。
そこに何かがあることを、もう予感しているようだった。
「……開けてみてください」
サトリさんの声に促され、波多野さんは小さく息を吸う。
「……はい」
引き出しが、ゆっくりと開く。
中には古い封筒や写真帳、使い込まれた文房具が並んでいた。
写真帳の隙間から、何枚かの古い写真が覗いている。
その一枚には、どこか波多野さんに似た、穏やかに笑う女性が写っていた。
「……こちらは?」
僕が尋ねると、波多野さんは懐かしむように写真を覗き込んだ。
「……母ですね」
「……そうですか」
僕はもう一度、写真に目を落とした。
写真の中の女性は、まだ若かった。
その下には、子どもたちを囲んで撮った写真や、庭先で撮られた写真もある。
この家での思い出なのだろう。
そして、その一番奥に――一通の封筒がある。
表には、少し震えた信之さんの字で、『みんなへ』とだけ書かれていた。
「……これ……」
波多野さんの指が震える。
封筒を取り出し、中から一枚の写真をそっと抜き出す。
「……あ」
そこに写っていたのは、あの日の家族だった。
好き勝手な方向を向く子どもたち。
一人は目をつぶっている。
大人たちもきれいには並んでいない。
そして、写真の端には――少し照れくさそうに笑う信之さんがいた。
決して、上手に撮れた写真ではない。
けれど。
そこには、家族全員がいた。
いつもカメラの向こう側にいた信之さんも。
その信之さんを取り囲む、家族の笑顔も。
誰一人欠けることなく、同じ夏の日の中に残されていた。
「……これ……こんな写真、あったんだ……」
波多野さんの声が震える。
「……いい写真ね」
白乃さんが、ぽつりと呟いた。
「綺麗に撮れてるって意味じゃないのよ」
そう言って、写真の中の信之さんを見る。
「みんなが、ちゃんと笑ってるもの」
写真を見つめるその目から、また一粒、涙がこぼれた。
「お父さまは、ずっとこれを残しておきたかったのですね」
サトリさんが、静かに寄り添う。
その時だった。
机の上に置かれた古いカメラから——。
カシャリ。
小さなシャッター音が響いた。
誰も触れていない。
けれど、その音は不思議なくらい穏やかだった。
まるで、長い間待ち続けていたものを、ようやく見届けたかのように。
カメラのレンズが、ほんの一瞬だけ光を反射する。
波多野さんは、写真から顔を上げた。
そして、涙に濡れた瞳でカメラを見つめる。
「……ありがとう」
波多野さんは微笑み、涙をこぼしながら呟いた。
お父さんへ、そしてこのカメラへ向けられた心からの感謝だった。
その言葉に応えるように――。
カメラから、もう一度だけ小さな音がした。
——カシャリ。
カメラの周囲に、温かな淡い光がそっと滲む。
『……もう、大丈夫ね』
サトリさんの穏やかな思念が届く。
自分の役目を果たしたカメラの光は、どこか満足気にゆらゆらと揺れていた。
サトリさんは、その大切なカメラをそっと両手で抱きかかえると、波多野さんへ向き直り、優しく告げた。
「お父さまの大切な遺品ではございますが……こちらのカメラ、私ども管理局でお預かりさせていただいてもよろしいでしょうか?」
思い出を届けてくれた父の形見を手放すことに、波多野さんは一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。
「……お預かり、ですか?」
サトリさんは抱きかかえたカメラを優しく撫でながら、波多野さんへ穏やかに微笑みかける。
「あ……『預かる』というのは、少し言葉が違いましたね」
サトリさんは、腕の中のカメラへ視線を落とす。
「この子はこれから、自分の意志で……たくさんの人や景色を撮りに出かけたいのだそうです」
「自分の意志で……?」
「ええ」
サトリさんは静かに頷いた。
「お父さまが大切にしていた想いを胸に、これからは新しい旅に出る。……付喪神としての、はじめの一歩ですね」
そして、波多野さんをまっすぐに見つめる。
「ですから、私どもでそのお手伝いをさせていただいてもよろしいでしょうか」
波多野さんは驚いたように目を丸くした。
けれど、すぐにその表情は柔らかなものへと変わっていく。
サトリさんの腕の中にあるカメラを、慈しむように見つめた。
「……旅、ですか」
ぽつりと呟いてから、少しだけ笑う。
「……うん。そうですね」
波多野さんは、そっとカメラのボディへ指先を触れた。
「ずっと暗い部屋に閉じ込めておくより、父もきっと……そのほうが喜ぶと思います」
指先で古びたボディを撫でながら、波多野さんは優しく微笑んだ。
「行ってらっしゃい」
その声には、もう迷いはなかった。
「たくさんの素敵な写真を撮ってね」
その言葉に応えるように——。
カメラのレンズが、一瞬だけ温かな光を帯びた。
そして、嬉しそうに小さくまたたいた。
家をあとにした帰り道。
波多野さんと白乃さんが後部座席に座り、サトリさんは僕の隣でカメラを大切そうに抱えている。
揺れる車内の中で、白乃さんが波多野さんへ優しく語りかける。
「波多野さん」
「はい?」
「世の中にはね、時々こういう少しだけ不思議なことが起きるの」
白乃さんは、窓の外へ視線を向けながら、柔らかく微笑んだ。
「……今日の出来事は、お父さまとの、特別な秘密にしておいてあげてね」
「虻川さん……」
波多野さんは一瞬、胸元へ手を当てた。
そして、静かに頷く。
「はい。誰にも言いません」
少しだけ間を置いてから、彼女は微笑んだ。
「……私の、ううん。私たちの宝物の秘密にします」
助手席でサトリさんに抱えられたカメラから、どこかわくわくするような、愛おしい気配が漂ってくる。
信之さんが遺した大切な思い出と。
これから始まる、新しい命の物語を乗せて。
僕たちの車は、静かに走り出した。




