ここにいる理由
僕はサトリさんの後を追って部屋に入る。
そこでサトリさんが見つめていたのは、部屋の隅に置かれた古い机だった。
その机の上には、一台の古い一眼レフカメラが置かれていた。
黒いボディには細かな傷がいくつも刻まれ、長い年月使い込まれてきたことが一目で分かる。机の上には丁寧に縫われた小さなクロスが敷かれ、その上に大切に置かれていた。
「……カメラ?」
僕が息を呑んで呟くと、サトリさんは小さく頷いた。
「ええ」
サトリさんは膝を折り、カメラの前にそっとしゃがみ込む。けれど、無理に触れようとはしなかった。
「この子から、さっきの声が聞こえたんです」
「この……カメラから?」
「正確には……このカメラに重なった『想い』から、でしょうね」
白乃さんに続いて、波多野さんも恐る恐る部屋の敷居を跨いで入ってくる。
「……父のカメラです。祖父からもらった形見のカメラだと言っていました」
「やっぱり」
サトリさんは愛おしそうに微笑んだ。
「お父さまは、これを本当に大切にされていたんですね」
「はい。昔から写真を撮るのが大好きで……」
波多野さんは懐かしむようにカメラを見つめる。
「夏休みに私たちが遊びに行くと、いつも嬉しそうにこれを持って庭に出てくるんです。『ほら、並んで』って、みんなの写真をたくさん撮ってくれて……」
語る声に、温かな愛おしさが滲んでいた。
サトリさんはカメラに澄んだ視線を注いだまま、静かに口を開く。
「だからこそ……ここに留まっているんですね」
「……何が、ですか?」
波多野さんが尋ねる。
サトリさんはすぐには答えなかった。
まるで、カメラの奥に宿る存在と視線を合わせているかのように、穏やかな眼差しを向けている。
「楽しかった時間の記憶ですよ」
その一言に、波多野さんが小さく息を呑んだ。
「……楽しかった、時間?」
「ええ」
サトリさんは静かに頷く。
「この家で過ごしたご家族の声や、弾けるような笑い声。お父さまにとっても、このカメラにとっても、宝物のような時間だったのでしょうね」
僕は改めて古びた一眼レフを見つめた。
ただの古い機械。道具。
けれど――何十年もの間、大切な家族の笑顔に向けられ、慈しみを持って扱われてきたものなら。
そこに温かな想いの残像が宿っていたとしても、決して不思議ではない。
「……じゃあ、私が聞き続けていたあの声は……」
「ええ」
サトリさんが優しく語りかける。
「たぶん、この子が大切に覚えているんです」
「この……カメラが?」
「はい」
その瞬間。
カメラの置かれた机の周りから、かすかな風がそよぐように、再び小さな音が響いた。
――あははっ!
無邪気な子どもの笑い声。
続いて、それを優しく見守る大人たちの賑やかな話し声。
僕は思わず息を止めた。
けれど、今度は恐怖や不気味さは微塵も感じなかった。
やがて、サトリさんの穏やかな思念が、映像のように僕の中へ静かに流れ込んでくる。
目の前に広がるのは、輝くような真夏の日の午後。
陽だまりの庭で、眩しそうに笑う子どもたち。
その周りでは、大人たちが楽しそうに言葉を交わしている。
そして――その輪の中に、信之さんもいた。
いつもならカメラを構え、少し離れたところから家族を見つめている彼が、この日は子どもたちに囲まれている。
孫たちに腕を引かれれば、困ったように笑いながらも、その手を嬉しそうに握り返す。
大人たちとの他愛のない会話には穏やかな笑みを浮かべ、時折、誰かの言葉に声を上げて笑う。
その笑顔は無防備で、どこか少年のようだった。
家族の笑い声に囲まれながら、信之さんもまた、心から楽しそうに笑っている。
何気ない夏の午後。
特別な出来事など、何もない。
ただ、みんながここにいて、笑っている。
その輪の中に、自分もいる。
――それだけで、信之さんにとっては十分に幸せな時間だったのだろう。
そんな温かな時間が、映像のように鮮やかに僕の中へ流れ込んでくる。
波多野さんの瞳に、うっすらと涙が滲んでいた。
「……あの頃の声だ……」
彼女は口元を震わせながら、ぽろぽろと涙をこぼした。
白乃さんは何も言わなかった。
ただ、そっと波多野さんの背中に手を添えた。
それだけだった。
けれど、その手には、波多野さんの気持ちをそっと受け止めるような優しさがあった。
サトリさんは、じっとカメラを見つめている。
まるで、そこにいる誰かと言葉を交わしているようだった。
『うん……そうだったのね』
サトリさんの思念が、僕の心の中で静かに響く。
『……お父さまが亡くなったあとに、付喪神になったのね』
僕は改めて、机の上のカメラへ視線を向けた。
信之さんに大切にされ、何度も手に取られ、何度もシャッターを切ったカメラ。
撮影を終えれば、いつも丁寧にレンズを拭かれ、決まった場所へ戻される。
そのレンズの向こうには、いつも家族がいた。
庭を駆け回る子どもたち。
縁側で笑う大人たち。
休みになるたびに増えていく、家族の声と笑顔。
最初は、ただ写真を撮るための道具だったのだろう。
けれど、同じ人の手に抱かれ、同じ家族の時間を繰り返し見つめるうちに――そこへ少しずつ、何かが重なっていった。
信之さんの手の温もり。
家族を見つめる優しい眼差し。
シャッターを切ったあとに浮かぶ、満足そうな笑顔。
それらを、このカメラはずっと受け止めてきた。
そして――ある夏の日。
カメラの記憶が、ひとつの光景を鮮明に映し出した。
家族みんなで庭に集まった、あの日。
いつものように、信之さんがカメラを構えている。
『ほら、みんなこっち向け』
子どもたちが笑いながらレンズを見る。
けれど、その日はいつもと少し違った。
『……今日は、俺も入るか』
信之さんはカメラを下ろした。
そして、しばらくそのカメラを見つめる。
まるで、長年連れ添った相棒に語りかけるように。
『お前が、たまには撮ってくれ』
少し照れたように笑いながら、信之さんはカメラを台の上へ置いた。
セルフタイマーをセットする。
そして、家族の輪へと急いで駆けていった。
子どもたちは好き勝手な方向を向いている。
一人は目をつぶり、信之さんも少し端に寄ってしまっている。
決して、きれいに整った写真ではない。
それでも――そこには、家族全員がいた。
カシャリ。
シャッターが切られる。
その瞬間。
カメラの中に、今までにはなかった小さな感覚が生まれた。
嬉しい。
そんな言葉すら、まだ知らない。
ただ――大切な人たちと同じ場所に、自分もいる。
そんな気がした。
それは、まだ「心」と呼ぶにはあまりにも小さなものだった。
けれど、その一枚を残せたことが――嬉しかった。
『お父さま……このカメラに、気づいていたのね』
サトリさんの思念が、静かに響く。
『うん。ずっと使っていたから……僕のことも、少しずつ分かっていたのかもしれない』
声を出すこともできない。
自分から動くこともできない。
それでも、信之さんには何となく伝わっていたのだ。
自分が大切にしているこのカメラもまた、長い年月の中で、この家族の時間を受け取っていることが。
そして――信之さんが亡くなったあと。
それまでぼんやりと芽生えていたものが、はっきりとした「想い」へ変わった。
家族の声を覚えていた。
笑顔を覚えていた。
そして――信之さんが最後に残した、一枚の写真のことも。




