家に残るもの
僕たちは店を出て、駐車場へ向かった。
八月下旬の陽射しはまだ強く、アスファルトから立ち上る熱気が肌にまとわりつく。
波多野さんを助手席へ案内し、サトリさんと白乃さんが後部座席に乗り込んだ。
「それでは、出発します」
僕はエンジンをかけ、車を走らせた。
こうして僕たちは、信之さんが暮らしていたという古い家へ向かうことになった。
「この道をまっすぐ行って、途中で右に曲がってください」
「分かりました」
波多野さんの案内に従いながら、ハンドルを握る。
白乃さんの店がある通りを抜け、車は住宅街の奥へと進んでいった。
道幅は少しずつ狭くなり、古い家と新しい家が混じる静かな町並みへと変わっていく。
「お父さまは、ずっとあのお家に住まわれていたんですか?」
「ええ。両親が結婚した時に建てた家だと聞いてます」
「そうなんですね」
「母は、私が結婚する少し前に亡くなったんです。だから、私が家を出てからは父が一人で暮らしていました」
波多野さんは、窓の外へ視線を向けた。
少しだけ寂しそうな横顔だった。
「……そうだったんですね」
「でも、休みになると家族で遊びに行ってたんです。兄たちの家族や親戚も集まったりして……とても賑やかでした」
その声には、先ほどまでの緊張とは違う「懐かしさ」が宿っていた。
僕がバックミラー越しに視線を送ると、サトリさんは何も言わず、静かに波多野さんの言葉に耳を傾けていた。
やがて、波多野さんが前方を指差した。
「あの角を曲がった先です。あの辺りになります」
「分かりました」
僕はゆっくりと車の速度を落とした。
――その先に、信之さんが暮らしていた家がある。
そこで一体、何が起きているのだろう。
ハンドルを握り締めながら、胸の奥で小さな緊張が膨らんでいくのを感じていた。
車を静かに進め、波多野さんの案内する家の前で停車した。
「ここです」
波多野さんが小さく呟く。
エンジンを切り、車の外へ出た。
目の前に立っていたのは、少し時の経過を感じさせる一軒家だった。
古い家ではあるものの、荒れ果てているわけではない。庭には、手入れされていれば立派だったであろう庭木や石燈籠が並び、その足元には伸びた雑草がところどころ残っている。
「外から見ると……ごく普通の家ですね」
僕が呟くと、波多野さんは困ったように苦笑した。
「そうなんです。だから余計に、あんなことが起きるのが不思議で……」
白乃さんも車を降り、静かに家を見上げる。
サトリさんは何も言わず、じっと家のほうへ視線を向けていた。
「サトリさん?」
「……いえ」
少しの間を置いて、彼女は小さく首を横に振る。
「まだ、何とも言えません」
言葉とは裏腹に、その横顔にはいつもの穏やかさとは違う、わずかな緊張が浮かんでいた。
僕はそれ以上追及せず、波多野さんへ向き直る。
「中へ入れますか?」
「はい。鍵はこちらです」
波多野さんが鞄から鍵を取り出した。
玄関前まで歩み寄り、鍵穴に差し込む。
カチャリ。
静寂の中に、金属の回る音が妙に大きく響いた。
波多野さんは一度だけ深呼吸をすると、ゆっくりと重い扉を開いた。
「……どうぞ」
玄関の中は薄暗かった。
長い間人の出入りがなかったせいか、どこか淀んだ空気が漂っている。
けれど、不快な臭いがするわけではない。
ただ――あまりにも静かだった。
外で鳴り響いていた蝉の声さえ、扉を閉めた瞬間に遠い世界の出来事のように途絶える。
僕たちは靴を脱ぎ、順番に家の中へ上がった。
波多野さんが先頭に立ち、案内してくれる。
「こちらが玄関で……居間はこの奥です。父の部屋は、廊下を進んだところにあります」
「分かりました」
僕は周囲に視線を走らせた。
年月の刻まれた柱。少し色褪せた壁紙。
廊下の隅には、まだ整理しきれていない段ボールがいくつか積み上がっている。
白乃さんも玄関からゆっくりと家の中を見回していた。
「……思っていたより、しっかりしているわね」
「そうですか?」
波多野さんが振り返る。
「ええ。古いお家だけれど、きちんと手入れされていたのが分かるわ。お父さまが大切に住まわれていたのね」
「……はい」
波多野さんの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「父は、家族と過ごしたこの家が好きだったみたいです。庭の手入れも自分でしていましたし……」
「そう」
白乃さんは小さく頷いた。
どこか懐かしむような波多野さんの横顔を見て、僕は胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
家を売る。
言葉にしてしまえば、それだけのことなのだろう。
けれど、この家には波多野さんたちが過ごした時間が残っている。
それを手放すのは、きっと簡単なことではない。
――けれど。
廊下を歩き始めたところで、サトリさんがふと足を止めた。
「……サトリさん?」
彼女はすぐには答えなかった。
ただ、家の奥――薄暗い廊下の先へ向かって、静かに顔を上げている。
「どうしました?」
白乃さんもサトリさんの様子に気づき、足を止めた。
「サトリちゃん?」
サトリさんはしばらく黙っていた。
やがて、周囲に聞こえないよう、僕へ向けて思念を飛ばす。
『……良治くん』
僕も波多野さんに気づかれないよう、小さく息を呑んで耳を傾ける。
『この家……誰かが、まだここにいます』
背筋を、ひやりとした冷気が駆け抜けた。
白乃さんの表情からも、さっきまでの柔らかな笑みが消える。
気配を察した波多野さんが、不安そうに振り返った。
「……やっぱり、何かいるんですか?」
サトリさんは答えず、その澄んだ視線を廊下の奥――信之さんの部屋だという場所へまっすぐ向けていた。
そして。
静まり返った家の奥から、ごく小さな、掠れるような音が聞こえた。
――くすっ。
誰かが、楽しそうに笑った。
ほんの一瞬だった。けれど、それは確かに人の笑い声だった。
「……やっぱり……聞こえる」
波多野さんが身体を強張らせ、小さく呟いた。
僕も慌てて耳を澄ませる。
けれど、今度は何も聞こえない。
「今の……聞こえましたか?」
僕が尋ねると、波多野さんは蒼白な顔で頷いた。
「はい……。いつも、父の部屋からなんです」
その言葉を聞いた瞬間、それまで静止していたサトリさんがゆっくりと歩き出した。
「サトリさん?」
呼びかける声に返事はなかった。
サトリさんは静かに廊下を進み、奥にあるお父さんの部屋の前で足を止める。
そして、躊躇いもなく、すっと襖を開き放った。
開かれた部屋の中には、古い箪笥と使い込まれた机、それからいくつかの家具が静かに置かれているだけだった。
誰もいない。
けれど――。
サトリさんは部屋の奥の一角を見つめると、ふっと目元を和らげた。
「あぁ……」
小さく、愛おしむように息を吐く。
「あなただったのね」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「サトリさん……?」
僕が後ろから声を掛ける。
けれど、サトリさんは振り向かない。
ただ、誰もいないはずの部屋の一角へ優しい眼差しを向けたまま、静かに微笑んでいた。




