残されたもの
外へ出ると、まだ夏の陽射しが肌を焼く。けれど、街路樹を抜ける風には、ほんのわずかに涼しさが混じっていた。蝉の声も、少し前より遠くなった気がする。
二人で車に乗り込み、エンジンをかけた。
白乃さんの店までは、車で十分ほどだ。
僕は、静かにアクセルを踏んだ。
八月も下旬だというのに、車内には昼間の熱気がまだこもっていた。
窓を少し開けると、ぬるい風が流れ込んできた。
「……サトリさん」
「はい?」
「今回の相談、何か気になることがありますか?」
僕が尋ねると、サトリさんは少し考えるように黙った。
「まだ何とも言えません。ただ……白乃さん、電話で『気になることがある』と仰っていましたよね」
「はい」
「そういう時の白乃さんは、何かを感じ取っていることが多いんです」
サトリさんは窓の外へ視線を向けた。
「それに……古い家には、長くそこに置かれていた物が残っていることがありますから」
「物、ですか?」
「ええ。人の想いというのは、人だけに残るものではありません」
そう言って、サトリさんは小さく微笑んだ。
「だから今回は、私も一緒に行ったほうがいいと思います」
「……なるほど」
僕は静かに頷き、ハンドルを握り直した。
やがて、見慣れた通りへ差しかかる。
遠くに白乃さんの店の看板が見えてきた。
「着きましたね」
「ええ」
店の近くに車を止め、僕たちは店へ向かって歩き出す。
店の前で足を止めた。
いつもなら聞こえてくるはずの店内の穏やかな気配が、今日は妙に静かに感じられた。
「……行きましょうか」
「はい」
僕たちは顔を見合わせると、静かに白乃さんの店の扉へ手を伸ばした。
「いらっしゃい。良治くん、サトリちゃん。忙しい時にありがとう」
扉を開けると、白乃さんと初音さんが温かい眼差しで出迎えてくれた。
けれど、カウンターには見慣れない一人の女性が座っている。
「初めまして。突然お呼び立てしてしまって、すみません」
短めのショートヘアが印象的な、五十代半ばほどの女性だった。
こちらへ振り返った彼女は、どこか緊張した面持ちで小さく頭を下げる。
シンプルなブラウスに落ち着いた色合いのスカート。膝の上で重ねられた両手には、わずかに力が入っているように見えた。
「こちら、不動産売買のご相談に来られた波多野さんなんだけど……」
白乃さんが女性――波多野さんを紹介してくれる。
「初めまして。人外適応管理局で相談員をしております、槇尾良治と申します」
「奥寺サトリです。よろしくお願いします」
二人で深く頭を下げる。
「人外……適応管理局?」
波多野さんは聞き慣れない言葉を口の中で確かめるように呟き、わずかに首を傾げた。
「……あ、すみません。初めて聞く名前だったもので」
「いえ。一般にはあまり知られていない部署ですから」
僕が苦笑すると、波多野さんは少しだけ安心したように緊張を緩めた。
「……そうなんですね。虻川さんが、あなた方に相談するのがいいとおっしゃって……」
それ以上、聞き慣れない局の名を深追いする様子はなかった。
「でしたら、まずは今回のことを詳しく聞かせていただけますか?」
「はい。もちろんです」
波多野さんは小さく頷いた。
「それでね……」
白乃さんが、少し困ったような表情を浮かべて言葉を添える。
「信之さんが暮らしていた家を手放すことになったそうなの。でも、家の整理をしている時に、少し不思議なことが起きたらしくてね」
「はい……。父が今年亡くなって、誰も住まなくなってしまったので、手放すことにしたんです。それで、少しずつ荷物を整理していたんですが……」
そこで言葉を止め、波多野さんは膝の上の手にぎゅっと力を込めた。
「何か、気になることがあったんですね?」
「はい……。最初は気のせいだと思っていたんです。でも、何度も続くものですから」
その表情には、深い困惑と戸惑いが入り混じっていた。
僕はサトリさんと顔を見合わせる。
やはり、ただの不動産取引の相談ではない。
「……波多野さん。差し支えなければ、何が起きたのか順番に聞かせてもらえますか?」
僕が静かに尋ねると、波多野さんは少し思案するように視線を落とした。
「ええと……」
波多野さんが言いにくそうにしたその時、カウンターの奥から初音さんがそっと声を掛けた。
「ゆっくりでいいですよ。」
初音さんは温かい湯気の立つ新しいカップを、波多野さんの前にそっと置いた。
「ありがとうございます……」
「いえ。怖い思いをされているなら、なおさらです」
優しく微笑む初音さんを見て、僕の胸の奥がじんわりと温かくなる。
相手が言葉を探している時、無理に聞き出そうとはせず、自分のペースで話せるようになるまで寄り添う。そういう優しさが、いかにも初音さんらしかった。
――そして。そんな彼女を見ていると、以前この店で自身の過去を打ち明けてくれた時のことが胸によみがえる。
あの時の初音さんも、静かに自分の言葉を選びながら、長年抱えていた想いを話してくれた。
今、誰かの話を急かさずに待っている彼女の姿を重ね合わせると、あの時、僕に心を開いてくれたことの重みが、改めてじわりと胸に沁みていく。
「……ありがとうございます、初音さん」
思わず呟くように声に出すと、初音さんは少しだけ目を丸くした。
「え?」
「いえ。なんとなく」
「……ふふ、変な人ですね、良治さんは」
初音さんが小さく口元を緩める。
その笑顔につられて、僕も微笑んだ。
……けれど。
隣に座るサトリさんが、無言のままこちらをじっと見つめていることに気づく。
(……なぜか、すごく気まずい)
すべてお見通しといったサトリさんの穏やかすぎる無言の視線に、僕は背中に冷や汗をかいた。
「それで……実は、家の中で――」
波多野さんの静かな声に、僕は慌てて意識を目の前の案件へと引き戻した。
「片づけをしていると、外は雨なんて降っていないのに、他の部屋が一瞬、ぱっと明るくなったり……」
「明るく?」
「はい。ほんの一瞬です。照明をつけたような感じではなくて……もっと強い光で」
波多野さんは、どう説明すればいいのか迷うように言葉を選んでいる。
「それから……家の中で、人のにぎやかな声が聞こえることもあって」
「人の声、ですか?」
「ええ。何人かいるような……笑い声だったり、話し声だったり。最初は、近所の声が聞こえてきたのかと思ったんです」
波多野さんはそこで一度、言葉を切った。
「でも、家の中にいると、どうも外から聞こえている感じじゃなくて……」
「どの部屋から聞こえてきたか、分かりますか?」
「それが……毎回、同じ場所なんです」
その言葉に、サトリさんがわずかに顔を上げた。
「同じ場所……?」
「はい。父の部屋です」
僕は無意識に姿勢を正した。
「お父さまの部屋で、光や声が?」
「そうなんです。でも、部屋に入ると何もないんです。誰もいませんし、電気も消えたまま。……でも、絶対に気のせいじゃないんです。聞こえてくる声も、どこかで聞いたことのある声で……」
そこで一度、波多野さんは遠くを見るような目になった。
「私の子供がまだ小さかった頃は、よく父の家へ遊びに行きました。その時の……みんなの笑い声や話し声と、そっくりなんです」
恐ろしさを語っているはずなのに、その表情にはどこか懐かしむような色が浮かんでいた。
僕は黙って波多野さんの言葉を聞いていた。
もし本当に、昔の家に残された何かが関係しているのだとしたら――それは、ただ人を怖がらせるために現れているものではないのかもしれない。
「そのお家に伺うことはできますか? 実際に現場を見てみたほうが、分かることもあると思います」
僕が尋ねると、波多野さんは少し驚いたように顔を上げた。
「……家に、ですか?」
しばらく考えたあと、彼女は小さく頷いた。
「分かりました。ご案内します。これが解決しないと、あの家は売れませんし……」
そう言った波多野さんの声には、どこか割り切れない寂しさが混じっていた。
僕はその言葉に頷く。
けれど、隣に座るサトリさんは何も言わなかった。ただ波多野さんの言葉を聞きながら、静かに目を伏せている。
その表情が、なぜか少し気になった。
「では、今から伺っても大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
波多野さんはそう答えると、カウンターの椅子から立ち上がった。
「家までは、ここからどのくらいですか?」
「車で二十分くらいです。少し離れたところなので」
「分かりました。それなら、こちらの車で向かいましょう」
「私も一緒に行くわ」
白乃さんもカウンターから出てくる。
「そもそも、このお話を受けたのは私だから。現地を見ておいたほうがいいでしょう?」
「そうですね。お願いします」
「それじゃあ、初音ちゃん。お店をお願いしてもいいかしら?」
「はい、大丈夫ですよ。気をつけて行ってきてくださいね」
初音さんは、以前よりずっと頼もしくなった笑顔で頷いた。
僕はふと初音さんの顔を見る。
笑顔で見送ってくれるその表情に、なぜか少しだけ後ろ髪を引かれるような気持ちになった。
以前の僕なら、初音さんにも一緒に来てもらおうと考えていたかもしれない。
けれど、今回はサトリさんが一緒にいてくれる。
それに――白乃さんが大切にしているこの店を、初音さんになら安心して任せられる。
「気をつけて行ってきてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
初音さんにそう返して、僕は店の扉へ向き直った。
「では、参りましょうか」
サトリさんが穏やかに声を掛ける。
「はい」




