今日という一日
初音さんの話が終わると、しばらくの間、店内には静かな時間が流れた。
僕は、すぐに言葉を返すことができなかった。
何百年も前の出来事。
その記憶を、初音さんは今も大切に抱えている。
けれど、それは決して悲しいだけの記憶ではなかった。
人間から「温もり」を教えられ、その記憶を胸に、長い年月を山で過ごしてきた。
そして今、初音さんは人の世界へ降りてきて、僕たちと同じように働き、笑い、悩みながら毎日を過ごしている。
そう考えると、不思議な愛おしさが胸に満ちていく。
「……初音さんは、後悔していないんですか?」
「後悔……ですか?」
「人の世界へ来たことです。何百年も山で暮らしていたなら、今の生活は……きっと、分からないことばかりですよね」
初音さんは少しだけ目を丸くした。
けれど、すぐに小さく笑った。
「はい。分からないことばかりです――でも」
初音さんは窓の外へ視線を向けた。
「分からないからこそ、知りたいと思うんです」
その眼差しには、管理局へ初めて来た頃のような怯えはもうなかった。
静かではあるけれど、自分の足で先へ進もうとする、確かな意思が宿っている。
「知りたい?」
「はい」
そう言って、初音さんは嬉しそうに微笑んだ。
「ハツさんが大切にしていた世界が、どんなものなのか。人が誰かを想うということが、どういうことなのか。家族になるということが、どんなに温かいものなのか」
そこで一度言葉を切り、初音さんは自分の胸元へそっと手を当てた。
「……それに、私自身が、どんなものを楽しいと思うのかも」
「あ……」
思わず声が漏れた。
以前、僕が初音さんに尋ねたことを思い出す。
仕事が終わったあと、何をして過ごせばいいのか分からない。
何をすれば楽しいのかも分からない。
あのときの初音さんは、ただ困ったように笑っていた。
けれど、今は違う。
少なくとも彼女は、自分が何を感じ、何をしたいのかを、自分自身で探そうとしている。
「じゃあ、少しずつですね」
僕がそう言うと、初音さんは静かに頷いた。
僕は少し考えてから、言葉を続けた。
「人間だって、自分が何をしたいのか分からないまま生きている人は、たくさんいますから」
「……そうなんですか?」
「そうですよ」
思わず苦笑する。
「僕だってそうです。仕事をして、帰って、寝て。また仕事をして……。それで、気がついたら一日が終わってることもあります」
「ふふ……」
初音さんが小さく笑った。
「槇尾さんも、同じなんですね」
「まあ……そういう意味では、僕もまだ勉強中です」
「では、お互いに勉強ですね」
「そうですね」
そう答えると、初音さんは嬉しそうに頷いた。
その笑顔を見ながら、僕はふと思った。
人と人が出会うということは、何かを教えることだけではないのかもしれない。
誰かと出会ったことで、自分では気づかなかったものに気づく。
それもまた、人と関わるということなのだろう。
黒さんに言われた言葉を思い出す。
『十年先、二十年先まで責任を持てる奴だけが口を出せ』
あのときは、その言葉の重さばかりを考えていた。
けれど今は、少しだけ違う意味にも聞こえる。
誰かの未来を勝手に決めてしまうのではなく。
その人が自分の足で未来へ進めるように、隣で支える。
それもまた、僕たちの仕事なのかもしれない。
「……初音さん」
「はい?」
「これからも、分からないことがあったら聞いてください」
「はい」
「僕も分からないことはありますけど」
そう付け加えると、初音さんはくすりと笑った。
「では、私からも槇尾さんに質問していいですか?」
「もちろんです」
「人間の世界で、槇尾さんが一番好きな時間は……どんな時間ですか?」
「僕が?」
「はい」
思いがけない質問だった。
僕は少し考える。
仕事をしている時間。
誰かの相談に乗っている時間。
家に帰って、一人で過ごす時間。
いろいろと思い浮かんだ。
けれど、なぜか最初に頭に浮かんだのは――。
「……こういう時間、かもしれません」
「こういう時間?」
「誰かと、何でもない話をしている時間です」
初音さんは静かに僕を見つめている。
「特別なことをしているわけじゃない。でも、あとになって思い出すと、なんとなく心に残っている。そういう時間が、僕は好きなのかもしれません」
「……素敵ですね」
「そうですか?」
「はい」
初音さんは、窓から差し込む午後の光へ目を向けた。
「では、今日のこの時間も……いつか大切な思い出になるのでしょうか」
その言葉に、僕は少しだけ驚いた。
そして――笑った。
「きっと、そうなるんじゃないですか」
初音さんも、ゆっくりと微笑んだ。
カウンターの向こうでは、冷蔵庫の低い音が静かに響いている。
外では、夏の蝉が鳴いていた。
何でもない午後だった。
けれど、何百年もの時間を生きてきた雪女と、まだまだ経験の浅い僕が、こうして同じ場所で何気ない話をしている。
もしかしたら、人の一生というのは、こういう時間の積み重ねなのかもしれない。
いつか振り返ったとき、「あの日は、こんな話をしたね」と笑えるような。
そんな小さな記憶を、ひとつずつ増やしていくことなのかもしれない。
そのときだった。
店の入り口から、白乃さんの声が聞こえてきた。
「二人とも、ずいぶん楽しそうね」
「白乃さん」
振り返ると、白乃さんが大きな買い物袋を手に立っていた。
その足元には、いつの間に来たのか、あの黒猫がいた。
黒猫は僕たちの方をちらりと見ると、初音さんの足元へ歩み寄る。
初音さんは嬉しそうにしゃがみ込み、その黒い背中をそっと撫でた。
「ふふ……今日も来てくれたんですね」
黒猫は嫌がる様子もなく、初音さんの手に身を預けている。
「初音ちゃん、すっかり仲良しね」
白乃さんが微笑ましそうに声をかけると、初音さんは少し照れたように頷いた。
「はい。この子、触らせてくれるんです。……もう少し仲良くなれたらいいなって」
そう言って、初音さんはもう一度、黒猫の頭を優しく撫でた。
黒猫はしばらく気持ちよさそうに目を細めていたが、やがてふいに顔を上げる。
そして、満足したとでも言うように、ふんっと小さく鼻を鳴らすと、庭の方へ向かって歩き出した。
「あら、黒さん。もう行くの? 寄っていかないの?」
白乃さんが呼びかける。
僕も思わず、その背中を目で追った。
「……黒さん?」
その名前に、僕は小さく目を瞬かせる。
「彼は黒さんというんですね」
以前、管理局で僕に鋭い問いを投げかけてきたあの黒猫。
その名前を、今こうして知れたことが、なぜだか少し嬉しかった。
「ええ。みんな、そう呼んでるわ」
白乃さんがそう答える間にも、黒さんは振り返ることなく、庭の奥へと静かに姿を消していく。
「……行っちゃいましたね」
初音さんが少し残念そうに、その背中を見送った。
「また来てくれるわよ」
白乃さんが笑う。
「そうですね」
初音さんも小さく笑った。
その表情には、いつかまた黒さんに会いたいという気持ちが、ほんの少しだけ滲んでいた。
「ごめんなさい、白乃さん。話し込んじゃって」
初音さんが申し訳なさそうに声をかけると、白乃さんはおかしそうに手を振った。
「いいのよ。伏見くんに今日も予定外の物、買わされちゃったわ」
大物の白乃さんまで伏見さんには敵わないらしい。
「それより良治くん、今日は報告に来たんでしょう?」
「あ……そうでした」
僕は苦笑した。
持田家が無事に新しい生活を始めたという経過報告に来たはずなのに、すっかり初音さんの話に夢中になっていた。
けれど――今日、初音さんから聞いた話は、きっとこれからも僕の中に残り続けるだろう。
人は、いつまでも生きられるわけじゃない。
だからこそ、誰かと過ごした時間を覚えている。
何気ない会話も。
一緒にお茶を飲んだことも。
ふと交わした言葉も。
そんな小さな記憶が、いつか誰かの心に残り、その人の中で生き続けていくのかもしれない。
僕は、窓の外へ目を向けた。
夏の陽射しの中を、蝉の声が遠く響いている。
今日という何でもない一日も、いつか思い出になる。
そう思うと、目の前にあるこの穏やかな時間が、少しだけ大切なものに思えた。




