雪女に届いた想い
そんな、ある日のことでした。
久しぶりに、人の気配が山へと近づいてきたのです。
初めは、いつものように吹雪を起こして追い返そうとしました。
この山に人を近づけないことは、長い年月の間に身についた習慣のようなものでした。
けれど、その瞬間。
胸の奥で、忘れていたはずの鼓動が小さく鳴りました。
もしかしたら――。
ハツさんが帰ってきたのかもしれない。
「音」ちゃんが、大人になって訪ねてきてくれたのかもしれない。
そんなはずはないと分かっているのに、私は居ても立ってもいられず、雪の舞う山道へと駆け出しました。
そこに立っていたのは、一人の若い女性でした。
「はじめまして。雪女様ですよね? 私は桜と申します」
その名前を聞いた時、私はすぐには状況を理解できませんでした。
けれど、桜さんが懐から大切そうに取り出したものを見た瞬間、私の時間は完全に止まったのです。
それは、古びた一本の木櫛でした。
見間違えるはずもありません。
何百年の時が流れても、私の記憶から消えることのなかったもの――。
あの日、私がハツさんへ贈った櫛でした。
「……それは」
「はい。私の先祖、ハツさんが大切にしていたものです。雪深い山に住まう、心優しい雪女様から贈られたものだと、代々言い伝えられてきました」
桜さんは、ハツさんと音ちゃんのその後の物語を教えてくれました。
山から降りた後、ハツさんは苦労しながらも幸せな人生を送ったこと。
そして、生涯、私のことを忘れることはなかったこと。
ハツさんの感謝の想いは、娘である音ちゃんへ。
音ちゃんから、その子へ。
その子から、また次の世代へ――。
何代もの子孫が、いつか私のもとへ訪れるために、この山のことを語り継いでくれていたのだと知りました。
けれど、そのたびに山は激しい吹雪で彼らを阻み、誰一人として奥深くまで辿り着くことはできなかったのだそうです。
「今日は、不思議なくらい吹雪が静かだったんです」
桜さんは、手の中の櫛をそっと撫でながら微笑みました。
「先祖の話では、何度もこの山へ向かったそうです。でも、いつも途中で激しい吹雪に阻まれて……誰一人として、あなたのもとへ辿り着くことはできませんでした」
桜さんは一度、櫛へ目を落としました。
「この櫛も、ずっと家で大切に守られてきました。けれど、私は思ったんです。この櫛を持って行けば、きっと何かが変わるんじゃないかって」
そして、少しだけ不思議そうに笑いました。
「実際、今日は不思議なくらい道が分かったんです。まるで、この櫛が、ずっと大切にされてきた想いをあなたへ届けに来たみたいに」
私は、何も言えませんでした。
長い年月を越えて受け継がれてきた一本の櫛。
それは、ハツさんと音さんの想いを、もう一度私のもとへ届けるための、小さな道標だったのかもしれません。
「長い時間がかかってしまいました」
桜さんは深く頭を下げました。
「ですが、ようやく先祖代々の願いを叶えることができました。あの日、ハツさんと音さんを助けてくださって、本当にありがとうございます」
そして、顔を上げて私を見つめました。
「あなたが二人を救ってくださったから、私たちは今、こうして生きています」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で凍りついていた何かが、静かに溶けていくような気がしました。
私はずっと、誰にも覚えてもらえていないのだと思っていました。
私たち人外にとって、数百年という時間は決して長いものではありません。
けれど、人にとっては一生を越えるほどの時間です。
人は、あっという間に歳を重ね、命を終えてしまう。
それなのに――。
誰かを大切に想った記憶は、消えずに残る。
次の世代へ。
そのまた次の世代へ。
そうやって、想いは受け継がれていく。
人は、命が短いからこそ、想いを繋いで生きていくのだと――。
私は初めて知りました。
私は、ハツさんと別れたあの日からずっと、ただ一人でこの山で待ち続けていました。
けれど、桜さんの話を聞いて、ようやく気づいたのです。
私は、ただ帰ってくる誰かを待っていたのではありません。
あの日、私を人の世界へ繋いでくれた、あの「温もり」を。
もう一度、探していたのだと。
そして、その温もりは――。
ずっと遠い昔に消えたものではありませんでした。
ハツさんから音ちゃんへ。
音ちゃんから、その子へ。
何代もの命を越えて、今もこうして私のもとへ届いたのです。
だから私は、今度は自分の足で、人の世界へ踏み出してみようと思ったのです。
ハツさんが最後まで大切にした世界へ。
そして、あの日、私に「温もり」を教えてくれた世界へ――。




