雪の中の小さな音
——あれは、今から何百年も前のことです。
まだ私が、人と関わることを恐れていた頃――吹雪の山に、一人の女性が迷い込んできました。
彼女は、ハツと名乗りました。
夫を病で亡くし、お腹に子を宿したまま、、頼る場所もなく、この山へ辿り着いたのだと話してくれました。
本来なら、私は風を起こし、人の身では耐えられない寒さで追い返していたはずでした。
人間と関わることなど、雪女にとって良いことではない。
そう信じていたからです。
けれど……吹雪の中で、彼女がお腹の子を守るように身を縮めている姿を見た時、胸の奥に、今まで知らなかった感情が生まれました。
この人間を助けたい。
そう思ってしまったのです。
今思えば、あれはほんの一瞬の心の揺らぎだったのかもしれません。
私はハツさんを家へ運び、寒さから守りながら、静かに看病しました。
そうして一緒に過ごすうち、ある日、ハツさんが私の手をそっと握って言ったのです。
「暖かい」
あの頃の私は、その言葉の意味が分かりませんでした。
私の手は冷たいはずなのに、と不思議に思ったのを覚えています。
けれど、その言葉は不思議と胸に残りました。
やがて、彼女は元気な女の子を産みました。
小さな手。
弱々しい泣き声。
人の子の温かさ。
それは、凍りついた山に訪れた、初めての春のようでした。
彼女は、その子に『音』という名前を贈りました。
「雪の降る夜ってね、とても静かでしょう。でも、耳を澄ませると小さな音が聞こえるの」
そう言って、彼女は笑いました。
「雪の中でも、ちゃんとそこにいるって伝えてくれる音。そんなふうに、誰かの心に届く子になってほしいから」
それが、その子の名前の由来でした。
しかし、三人で過ごした穏やかな時間は、そう長くは続きませんでした。
亡くなった夫の親族が、頼る場所のないハツさんを心配し、探しに来たのです。
私にも分かっていました。
人の子を、この冷たい山で育てることはできません。
人は、人の世で生きていくべきなのだと。
私は、何か形に残るものをハツさんに渡したいと思いました。
けれど、山にあるもので、人の暮らしに役立つものなど、ほとんど知りませんでした。
悩んだ末に、私は山の木を削って作った一本の櫛を、彼女に手渡しました。
「これを……持っていてください」
ハツさんは驚いたように目を丸くして、それから嬉しそうに笑いました。
何度も私に礼を言い、別れを惜しみながら、赤子を抱いて人里へ降りていきました。
私は、またいつか会えると思っていました。
きっと、いつか。
それから、長い年月が流れました。
あの山を訪れる者は、長い間現れませんでした。
何度も季節を繰り返すうちに、ハツさんのことも、あの小さな「音」ちゃんのことも、少しずつ遠い記憶になっていきました。
人の命が、私たち雪女とは比べものにならないほど儚く、短いものなのだと知ったのは、ずっと後のことです。
それでも――私は時折、雪の降る山道を見つめていました。
もしかしたら、いつかあの日のように、誰かが訪ねてくるのではないか。
「ただいま」
そう言って、笑って帰ってきてくれる人がいるのではないか。
そんな小さな願いだけは、どれほど長い年月が過ぎても、消えることはありませんでした。




