小さな楽しみ
白乃さんの喫茶店へ向かう道すがら、僕は瀬尾局長から頼まれていたことを思い出した。
「そういえば、現世で暮らしていて、何か困っていることはありませんか?」
そう尋ねると、初音さんは指先をそっと顎に添え、少し考え込むように首を傾げた。
「困っている……ですか」
しばらく考えたあと、初音さんは申し訳なさそうに微笑んだ。
「正直、自分でもよく分からないんです。毎日が初めてのことばかりで……『これが困ることなのか』ということも、まだ分からなくて」
その丁寧で控えめな仕草だけを見ていれば、誰も彼女が雪女だとは思わないだろう。
「あ……そういえば、一つだけあります」
「何でしょう?」
初音さんは少しだけ眉を寄せた。
「仕事が終わったあと、何をして過ごせばいいのか分からなくて」
「仕事のあと、ですか」
思いがけない悩みに、僕は少し考え込んだ。
趣味を見つけることだろうか。
ゆっくり身体を休めることだろうか。
誰かと食事をしたり、街を歩いたり、新しい人との繋がりを作ったりすることだろうか。
どれも間違いではない気がする。
けれど、それが初音さんにとって本当に必要なものなのかは、僕にも分からなかった。
「焦らなくてもいいと思います」
僕は考えながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「現世で暮らし始めて、まだ一か月ですよね。何が好きなのか、何を楽しいと思うのかも、これから少しずつ見つけていけばいいんじゃないでしょうか。僕なんかは仕事終わりに、気が向いたら公園を散歩したり、気になったものをスマホで撮ったりしています。後から見返すと、案外楽しいですよ」
自分の趣味を話すのは少し照れ臭かったが、初音さんの参考になればうれしい。
「写真……ですか?」
「ええ。猫とか、夕焼けとか。別に上手く撮れるわけじゃないんですけどね。気になったものを残しておくと、あとから見返すのが案外楽しいんですよ」
初音さんは、ほっとしたように微笑んだ。
「焦らなくてもいい……」
「ええ。分からないことがあったら、その都度誰かに聞けばいいんです。僕たちもいますから」
「ありがとうございます」
初音さんは小さく頭を下げた。
「焦らずに、一つずつ見つけていけるよう頑張ってみます」
そう言って、彼女は小さな拳を胸の前でぎゅっと握りしめる。
(頑張れ)
僕も心の中で、そっとエールを送った。
そんな話をしているうちに、僕たちは白乃さんの喫茶店へと辿り着いた。
先月訪れたときとは違う季節の花々が、店先の花壇をやさしく彩っている。
その花壇のそばでは、一匹の黒猫が気持ちよさそうに昼寝をしていた。
「あら……可愛いですね」
初音さんが足を止め、目を細める。
「この辺じゃ、ちょっと有名な野良猫ですよ。人懐っこくて、よく白乃さんのお店の前で寝ているんです」
僕がそう説明すると、猫は片目だけをゆっくりと開いた。
「……にゃあ」
確かに口は動いた。
けれど、不思議と声は聞こえない。
代わりに、尻尾だけがゆっくりと一度揺れた。
まるで、『好きに通ればいい』とでも言いたげだった。
僕は無類の猫好きでもある。
今すぐ撫でたい衝動をぐっと堪え、黒猫へ軽く頭を下げた。
スマホを素早く取り出し、黒猫へ焦点を当てる。
カシャッ。
少し目つきの悪い、ふっくらした黒猫が写っている。
僕のスマホをのぞき込み、初音さんが感心したように頷く。
「わぁ、可愛らしいですね。写真って……不思議ですね」
「そうですか?」
「ええ。そこにいない人や、もう戻れない場所まで残しておけるのでしょう?」
初音さんは、足元へ視線を向けた。
「……昔は、そんなものありませんでしたから」
すると黒猫は、僕ではなく初音さんの足元へするりと近寄っていく。
そして、挨拶でもするように、彼女の足へ身体をすり寄せた。
「わっ……」
初音さんは驚いたように目を丸くした。
けれどすぐに、ふっと表情を緩める。
「猫さんって……こんなにふわふわの毛なんですね」
初音さんはしゃがみ込み、黒猫をじっと見つめた。
「山で暮らしていた頃は、熊さんや狐さん、鹿さんたちの毛しか触ったことがなくて……」
(比べる対象のスケールが大きいな……)
思わずそう思ったものの、口には出さず苦笑する。
初音さんは無理に触ろうとはしなかった。
ただ、逃げてしまわないように気を遣うように、そっと手を伸ばしかけて――途中で止める。
「……触っても、いいのでしょうか」
「たぶん、大丈夫だと思いますよ」
僕が答えるより早く、黒猫は初音さんの手のひらへ頭を押しつけた。
「ふふ……」
初音さんの口元に、嬉しそうな笑みが浮かぶ。
黒猫はしばらくその場に留まっていたが、やがて満足したように喉を鳴らすと、ゆっくりと歩き始めた。
「あ……」
初音さんが名残惜しそうに、その後ろ姿を目で追う。
黒猫は店の角を曲がる直前、一度だけ振り返った。
黄色い瞳が、僕たちをじっと見つめる。
ほんの一瞬。
まるで、僕たちの顔を覚えたとでも言うように。
そして今度こそ、角の向こうへ姿を消した。
「もう少し、仲良くなれたら嬉しいです」
初音さんは、猫が去っていった曲がり角を見つめたまま呟いた。
「きっと、また会えますよ」
僕がそう言うと、初音さんは小さく頷いた。
「……また、会える」
その言葉を確かめるように、もう一度呟く。
そして、ふっと微笑んだ。
「あ、そういえば……」
初音さんがこちらを振り向く。
「白乃さんに、ご用事があるっておっしゃっていましたよね?」
「……あ」
すっかり忘れていた。
猫と過ごした穏やかな時間に、すっかり目的を忘れてしまっていたらしい。
「そうでした。行きましょう」
僕たちは顔を見合わせ、苦笑しながら喫茶店の扉へ向かった。




