稲葉スーパーへようこそ
外へ一歩踏み出すと、じりじりと照りつける陽射しと、アスファルトから立ち上る熱気が夏の訪れを実感させた。
「……やっぱり暑いな」
額の汗を拭いながら、僕は伏見稲葉さんが営む『稲葉スーパー』へ向かった。激安ぶりで近所ではちょっとした有名店だ。
管理局を出て十分ほど歩くと、住宅街の一角に活気ある看板が見えてきた。
『地域密着・激安店 稲葉スーパー』。
店先には特売品の段ボールが積み上げられ、近所の主婦たちが品定めをしていた。
「へい、いらっしゃい! 奥さん、その大根は明日の方が安くなるけど、今日の煮物ならこっちの少し曲がったやつが味が染みるよ! ……その代わり、余った分で豆腐も買ってってくれたら助かるけどね!」
ダンボールの隙間から、威勢のいい、それでいてどこか食えない声が聞こえてきた。
声の主は、使い古されたエプロン姿の男――伏見稲葉さん。
この街で数百年を生きる仙狐で、商売となれば一枚も二枚も上手だ。管理局でも「あの人に財布の紐を握られるな」とよく言われている。
僕の姿に気づくなり、伏見さんは土のついた手を高々と振った。
「おっ、局の坊主じゃねぇか! そろそろ土用の丑の日も近いからな。今日は国産の特大うなぎが入ってるぞ!養殖とは香りが違うんだ。……毎日頑張ってる自分へのご褒美に一本。それから事務所の瀬尾の旦那とサトリちゃんたちへの差し入れに二本! 株がぐーんと上がるぞ? 勉強して百円引きにしてやる。だから買っていけ!」
息つく間もなく飛び出す売り文句に、僕はすっかり圧倒されてしまった。
「……今日は初音さんの様子を見に来ただけなんですけど」
「そう言う奴ほど買って帰るんだよ。ほら、この照り見てみろ。脂の乗りも最高だ。今夜食わなきゃ損するぜ?」
「うーん……」
言葉とは裏腹に、うなぎは僕の大好物でもある。照りよく焼き上がった身を見せつけられると、正直心が揺れた。
「よし、もうひと声だ。三尾買ってくれたら五百円引き!」
その「もうひと声」に、僕はあっさり負けた。
「……じゃあ、三尾ください」
伏見さんの口元が、にたりと吊り上がる。
「毎度ありっ!」
瀬尾局長の忠告は、ものの数分で破られた。
思いがけず手にしたうなぎの袋を提げ、僕は伏見さんとともに店内へ足を踏み入れた。自動ドアが開いた瞬間、まるで別世界のような涼しい空気が全身を包み込む。
(ここなら、初音さんも快適に働けそうだ)
そんなことを思いながら、僕は伏見さんに彼女の仕事ぶりを尋ねた。
「雪ん子の嬢ちゃんかい? 真面目によく頑張ってるよ。でも、少し真面目すぎるねぇ。昨日なんて、傷みかけた野菜を見て、ずいぶん申し訳なさそうな顔してな。『自分の温度管理が未熟だったせいです』なんて言うもんだから。」
その言葉を聞いて、僕は局へ来たばかりの頃の初音さんを思い出した。不安そうで、それでも懸命に人の世界へ踏み出そうとしていた姿を。
「だから言ってやったのさ。どんなに温度を気にしたって、腐るもんは腐る。人外には少し分かりにくいかもしれねぇが、人も野菜も、生き物ってのは寿命がある」
そこで伏見さんは少し言葉を切り、店先の野菜へ目を向けた。
「……その言葉を聞いたときの嬢ちゃん、少し寂しそうな顔をしてたな」
小さく肩をすくめると、続けた。
「だから捨てる前に、見切り品として必要な人に買ってもらう。最後まで誰かの役に立てるなら、それも立派な生き方だろ?」
ぶっきらぼうな口調だったが、その言葉には伏見さんなりの優しさが滲んでいた。
バックヤードへ足を踏み入れると、初音さんが積み上げられた野菜箱を整理していた。
重たいキャベツの箱を両腕で抱え、一つひとつ丁寧に棚へ運んでいる。
「ここは嬢ちゃんと人間のパートさん二人で回してる。パートさんには『最新設備の冷房システムを入れた』って説明してあるから、能力が知られる心配もねぇ」
なるほど、と僕は店内を見渡した。
夏だというのに野菜はみずみずしく、店内の冷気も必要以上に強くはない。初音さんの力は、誰にも気づかれないほど自然に、この店を支えていた。
ふと、初音さんが手を止める。
こちらに気づくと、ぱっと表情を明るくした。
「槇尾さん! こんにちは。お買い物ですか?」
僕の手に提げたレジ袋へ目を向けて、初音さんが嬉しそうに微笑む。
「いえ、今日は初音さんの様子を伺いに来たんですが……伏見さんの商売上手に、すっかりやられてしまいました」
苦笑交じりにそう話すと、初音さんもつられるようにくすりと笑った。
「様子を見に来てくださったんですね。ありがとうございます。私、食品管理だけじゃなくて、最近はレジも任せてもらえるようになったんです」
そう話す初音さんの表情は嬉しそうで、できることが一つずつ増えていく毎日に、小さな喜びを見つけているのが伝わってきた。
「あ、それと……私、今日はもう仕事が終わるんです。このあと白乃さんのお店を少しお手伝いすることになっていて。もしお時間が大丈夫でしたら、一緒に行きませんか?」
初音さんが充実した毎日を送れていることが分かって、僕もほっと胸をなで下ろした。
「もちろんです。ちょうど白乃さんにも用事がありましたので」
「よかったです。それじゃあ、少しだけ待っていてくださいね」
初音さんはそう言うと、手際よく後片付けを始めた。
仕事を終えた初音さんと一緒に、僕たちは稲葉スーパーを後にする。




