大切な子
暁が眠ったあとも、瀬尾はしばらくその場を動けなかった。
ソファでは、暁が静かな寝息を立てている。
胸元には、昼間に撮った写真が大切そうに抱えられていた。
瀬尾は、その小さな姿を見つめる。
――朧。
千年前。
隠り世へ送る前の夜。
朧は、いつもと変わらない顔をしていた。
少なくとも、あの頃の自分にはそう見えていた。
怖いのだと思っていた。
知らない場所へ行くことが。
今までいた世界を離れることが。
けれど、違った。
『みちなりと……はなれたくなかった』
暁の言葉が、耳の奥に残っている。
朧が怖かったのは、隠り世ではなかった。
私と離れることだった。
「……本当に、私は何も分かっていなかったんだな」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
千年前。
朧が隠り世へ渡る、その前の夜。
二人で過ごしたあの草原で――。
朧の想いの一部が、現世へ零れ落ちた。
ずっと理由が分からなかった。
なぜ、あの時の想いがこれほど強く残ったのか。
――離れたくない。
――ずっと一緒にいたい。
それほどまでに、強かったのだろう。
言葉にできなかったからこそ。
伝えられなかったからこそ。
最後の最後まで、朧の中に残り続けていた。
そして。
「……私も、同じだった」
朧と離れたくなかった。
ずっとそばにいてほしかった。
それでも言わなかった。
言えば、朧を迷わせると思ったから。
朧のためだと。
これしかないのだと。
そう自分に言い聞かせて。
二人とも同じことを願っていたのに。
二人とも、その言葉を相手へ伝えなかった。
そのまま、千年が過ぎた。
瀬尾の視線が、眠っている暁へ戻る。
朧から零れた、小さな想い。
それは長い時間の中で人々の感情を取り込み、やがて形を持った。
けれど。
今ここにいるこの子は、もう朧の想いだけではない。
名前をもらった。
世界を知った。
笑うことを覚えた。
好きなものができた。
大切な人ができた。
そして。
自分で行く場所を選んだ。
「暁……」
瀬尾は小さく、その名を呼んだ。
不思議なものだと思う。
朧の「離れたくない」という想いから生まれたこの子が。
最後には、自分の意志で離れることを選んだ。
それも――。
朧と自分を、もう一度繋ぐために。
瀬尾はふと、小さく笑った。
「まるで……」
そこで一度、言葉が止まる。
こんなことを言えば、白澤さんあたりには笑われるかもしれない。
けれど。
「まるで……私と朧の間に生まれた子みたいじゃないか」
もちろん、本当にそういう存在ではない。
けれど。
朧の想いから生まれ。
名前をもらい。
今は、二人の間に残された言葉を繋ごうとしている。
そう思うと、不思議と胸の奥が温かくなった。
「……そうか」
瀬尾は、ようやく気づいたように目を細める。
「……いつの間にか、こんなにも大切になっていたんだね」
眠っている暁は答えない。
ただ、写真を抱いたまま静かに眠っている。
瀬尾はそのそばへ歩み寄ると、ずれていた毛布をそっと掛け直した。
「おやすみ、暁」
そして。
ほんの少し迷ってから。
「……大切な子」
誰にも聞こえないほど小さな声で、そう呟いた。




