自分で選んだ答え
瀬尾は暁を見つめた。
「私は、伝えるべきだった」
「……なにを?」
「離れたくないと」
暁の目が大きくなる。
「朧が好きだと」
「……」
「ずっと一緒にいたかったと」
千年前。
言葉にできなかったものを。
今になって、ようやく口にする。
「たとえ最後には同じ道を選ぶしかなかったとしても……それでも、伝えておけばよかった」
暁は瀬尾の顔をじっと見つめていた。
やがて。
「……おぼろ」
小さな手が、自分の胸元へ触れる。
「おぼろ、しらない」
「……そうだね」
「みちなりも……いっしょにいたかったって」
「ああ」
「すきだったって」
「ああ」
暁は黙り込んだ。
しばらくして。
胸元から手を離し、瀬尾の服をぎゅっと掴む。
「……つたえたい」
「え?」
「おぼろに」
今度は、迷わなかった。
「みちなりも……はなれたくなかったって」
瀬尾の瞳が揺れる。
「おぼろのこと、ずっとすきだったって」
「暁……」
「わたしが、つたえたい」
そして。
少しの間を置いてから、暁は続けた。
「……おぼろに、あいたい」
それは、朧の中に残っていた想いではなかった。
誰かに言わされた言葉でもない。
暁自身が初めて抱いた――自分の願いだった。
瀬尾は、しばらく何も言わなかった。
腕の中にいる暁を見つめる。
「……そうか」
「うん」
「朧に、会いたいんだね」
「うん」
暁ははっきりと頷いた。
「おぼろに、つたえたい」
「……うん」
「みちなりも、いっしょにいたかったって」
瀬尾は目を伏せる。
「すきだったって。ずっと、たいせつだったって」
「……ありがとう」
掠れた声だった。
暁は瀬尾を見上げる。
「せおは……あわないの?」
その問いに、瀬尾はすぐには答えなかった。
やがて、暁の髪をそっと撫でる。
「朧は今、隠り世にいる」
「うん」
「だから、朧に会うためには……隠り世へ行かなければならない」
「かくりよ……」
暁が小さく繰り返す。
「前に話したね」
「うん。おぼろが、いるところ」
「ああ」
瀬尾は静かに頷いた。
そして。
「でも、私は行けない」
暁が瞬きをする。
「……いけない?」
「ああ」
「なんで?」
「私は、この土地から離れることができないんだ」
隠り世を保つために。
あの場所と現世を繋ぎ続けるために。
瀬尾は、ここにいなければならない。
「隠り世へ続く門を開くことはできる。でも、その先へ一緒に行くことはできない」
「……」
暁は黙った。
しばらくして。
「せおは……こない?」
「ああ」
「いっしょじゃない?」
「……そうだね」
暁の小さな手が、瀬尾の服を握る。
「……やだ」
ぽつりと落ちた。
瀬尾は何も言わなかった。
「せおと……いっしょがいい」
「うん」
「りょうじも」
「うん」
「サトリも」
「ああ」
「はくたくも。しろのも。はつねも」
一人ずつ。
覚えた名前を確かめるように口にする。
「みんな……すき」
「そうだね」
「ここも、すき」
暁は瀬尾の胸元へ顔を寄せた。
「ここ、あんしんする」
「……うん」
「もっと、いろんなもの……みたい」
商店街を歩いた。
焼き芋を食べた。
川を見た。
家族を知った。
写真も撮った。
まだ知らないものは、たくさんある。
「もっと……しりたい」
「うん」
瀬尾の手が、小さな背中をゆっくりと撫でる。
暁はしばらくその胸元に顔を寄せていた。
やがて、小さな声で尋ねる。
「せおは……いてほしい?」
その問いに。
瀬尾の表情が、わずかに揺れた。
千年前。
自分は朧のためだと信じて、行く場所を決めた。
どうしたいのかを、ちゃんと聞かなかった。
そして。
自分がどうしたいのかも、伝えなかった。
だから今度は。
「……いてほしいよ」
暁が顔を上げる。
「できることなら、ずっとここにいてほしい」
「……せお」
「僕も、暁と離れたくない」
それは、隠さなかった。
もっと一緒にいたい。
これからも、暁が世界を知っていく姿を見ていたい。
それが、自分の本当の気持ちだった。
「でもね」
瀬尾は、暁をまっすぐ見つめる。
「白澤たちとも話したように、このまま現世にいることが暁のためになるとは限らない」
「……うん」
「人の感情を取り込み続ければ、暁自身がまた苦しくなる。周りの人外にも、今より強い影響が出るかもしれない」
暁は黙って聞いている。
「だから僕たちは、暁には隠り世へ行ってもらうしかないと考えている」
「……うん」
「それは、今も変わらない」
暁は黙って聞いていた。
「でもね」
瀬尾は暁をまっすぐ見つめる。
「だからといって、暁がどう思っているのかを聞かないまま送り出したくはない」
「……わたしの?」
「ああ」
「ここにいたいことも。朧に会いたいことも。離れたくないことも。全部、暁の本当の気持ちだろう?」
「……うん」
「だったら、それをちゃんと聞かせてほしい」
瀬尾は静かに微笑んだ。
「今度は、君の気持ちまで僕が勝手に決めたくないんだ」
「……わたしが、きめる?」
「ああ」
「わたしのこと……わたしが?」
「そうだよ」
暁は黙った。
視線を落とす。
そこには、ずっと抱いていた一枚の写真があった。
笑っている自分。
その隣には瀬尾がいて。
良治がいて。
少し離れたところには、サトリがいる。
みんな、一緒にいる。
暁の指が、写真の中の瀬尾へ触れる。
「……せお」
「うん」
「はなれたくない」
瀬尾の瞳が揺れた。
「……うん」
「みんなとも、はなれたくない」
「うん」
「ここに……いたい」
小さな声。
それは、紛れもない暁の本心だった。
瀬尾は急かさなかった。
ただ、その言葉を受け止める。
暁は写真を見つめたまま、もう片方の手を胸元へ置いた。
「でも……」
小さく息を吸う。
「わたしはおぼろに……あいたい——」
瀬尾は何も言わなかった。
「おぼろのこと……もっと、しりたい」
胸の奥にあるものを、一つずつ確かめるように。
「おぼろに、みちなりのこと……つたえたい」
「……」
「それから……」
暁が少し考える。
「わたしのことも、つたえたい」
「暁のこと?」
「うん」
暁は写真へ目を落とした。
「わたし、なまえ、もらった」
「うん」
「みんなに、あった」
「うん」
「たのしいのも、うれしいのも……しった」
そして。
「たいせつも、しった」
瀬尾の目が、静かに細められる。
「それ、おぼろに……はなしたい」
「……そうか」
「うん」
暁は写真を胸元へ抱き寄せた。
それでも。
しばらく言葉は続かなかった。
行けば、ここから離れる。
瀬尾とも。
良治とも。
サトリとも。
大切になった人たちと離れることになる。
それがどういうことなのか。
今の暁には、もう分かっている。
だからこそ。
簡単には言えなかった。
長い沈黙のあと。
暁は瀬尾を見上げた。
「……せお」
「うん」
「わたし……きめた」
瀬尾は何も言わず、続きを待った。
暁の手が、写真をぎゅっと握る。
「わたし、かくりよにいく」
静かな声だった。
けれど、迷いはなかった。
ただ、その目には寂しさがあった。
小さな身体で。
小さな声で。
けれど、それは誰のものでもない。
暁自身が選んだ答えだった。
「……そうか」
瀬尾は、それ以上何も言わなかった。
ただ。
暁を強く抱きしめた。
「せお?」
「もう少しだけ……こうしていてもいいかい」
「……うん」
暁も、小さな腕を瀬尾の身体へ回した。
「わたしも……いっしょがいい」
「……うん」
離れたくない。
千年前。
朧も、そう願った。
道成も、同じだった。
けれど、あの時は互いにその言葉を伝えることができなかった。
今は違う。
離れたくないと伝えた。
一緒にいたいと伝えた。
それでも暁は、自分で行くことを選んだ。
瀬尾は、その選択を奪わなかった。
静かな事務所の中で。
二人はしばらくの間、ただ互いを抱きしめていた。




