聞けなかった言葉
◇
その日の夜。
暁は、昼間に瞬くんが撮ってくれた写真を、ずっと手放さなかった。
良治とサトリが帰ったあとの管理局は、昼間とは別の場所のように静かだった。
白澤も診療所へ戻り、今ここにいるのは瀬尾と暁だけだ。
窓の外はすっかり暗くなっている。
時折、遠くを走る車の音が聞こえるくらいで、事務所の中には時計の針が進む音だけが小さく響いていた。
暁はソファに座り、写真を膝の上に置いている。
何度も見たはずなのに、飽きる様子はない。
小さな指が、写真の中をゆっくりとなぞる。
「……りょうじ」
「うん」
「サトリ」
「うん」
「せお」
最後に、自分の姿へ指を置く。
「……あかつき」
「そうだね」
瀬尾は向かいの椅子に腰を下ろしたまま、静かにその様子を見ていた。
昼間のことがあってから、暁はずっと何かを考えている。
診療所でも。
局へ戻ってからも。
そして今も。
「……みんな、いっしょ」
暁が小さく呟いた。
「うん。一緒だね」
「……たいせつ」
「そうだね」
暁は写真を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて。
写真を胸元へ抱き寄せる。
「……せお」
「うん?」
暁はすぐには続きを言わなかった。
何かを探すように、自分の胸へ小さな手を重ねる。
「……おぼろ」
瀬尾の表情が、わずかに変わった。
「朧?」
「うん」
暁は目を伏せる。
「わたし……しっていた」
「……何を?」
小さな沈黙が落ちる。
暁は胸元を押さえたまま、ゆっくりと言葉を探した。
「おぼろ……こわかったんじゃない」
瀬尾は何も言わなかった。
「かくりよが、こわかったんじゃない」
その言葉に、瀬尾の指先がわずかに止まる。
「みちなりと……はなれたくなかった」
暁が、胸元の写真をぎゅっと抱く。
「ずっと……いっしょにいたかった」
瀬尾は静かに立ち、暁を抱き寄せた。
「私は……ずっと、分かっていたつもりだった」
暁が顔を上げる。
「朧が苦しんでいたことも。人の感情に触れるたび、自分まで傷ついていたことも」
「……うん」
「それでも、誰かを傷つけることを嫌がっていたことも」
瀬尾の腕に、わずかに力が入る。
「私は、そんな朧が……好きだった」
「すき?」
「ああ」
瀬尾は目を閉じた。
「自分があれほど苦しいのに、それでも誰かの痛みを気にしていた。自分のことより、周りのことばかり考えていた」
少しだけ、声が震える。
「不器用で。頑固で。それでも、自分より周りのことばかり考えていて」
「……」
「それでも、私のそばにいてくれた」
千年前。
何度も隣にいた姿が、脳裏を過ぎる。
「私は、朧と過ごす時間が好きだった」
暁は黙って聞いていた。
「ただ一緒にいるだけでよかった。何か特別なことをしなくても、そこに朧がいることが……私には大切だった」
その言葉を聞いた瞬間。
暁の胸の奥で、何かが揺れた。
「……おぼろも」
「え?」
「おぼろも、おなじ」
暁が瀬尾の服を掴む。
「みちなりがいると……うれしかった」
途切れ途切れに。
けれど、確かめるように言葉を紡いでいく。
「なまえ、よんでくれるの……すきだった」
「……」
「そばにいると、あんしんした」
瀬尾の表情が揺れる。
「みちなりがわらうと……うれしかった」
「暁……」
「ずっと、いっしょにいたかった」
暁が胸元を押さえる。
「でも……」
その顔が、少しだけ歪んだ。
「みちなり、くるしくなるの……いやだった」
瀬尾は息を止める。
「みんな、くるしいのも……いやだった」
昼間。
人の悲しみも、恐怖も、苦しみも。
暁はほんの少しだけ、その痛みに触れた。
だから今なら分かる。
「おぼろ……みんなを、いたくしたくなかった」
「……そうだね」
「だから……けしてって、いった」
瀬尾は答えなかった。
「でも」
暁が、ぎゅっと服を握る。
「ほんとうは、きえたくなかった」
小さな声だった。
「……みちなりと、いっしょにいたかった」
瀬尾の瞳が伏せられる。
「かくりよにいくの、いやだったんじゃない」
「……」
「みちなりと、はなれるのが……いやだった」
長い沈黙が落ちた。
やがて、瀬尾が小さく息を吐く。
「……そうか」
それだけだった。
けれど、その声はひどく掠れていた。
「私は……」
言葉が、一度途切れる。
「私も、離れたくなかった」
暁が目を見開いた。
「……みちなりも?」
「ああ」
瀬尾は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「朧に隠り世へ行ってほしくなんてなかった」
「……」
「ずっと、そばにいてほしかった」
千年前には口にできなかった言葉だった。
「けれど、あのまま一緒にいることはできなかった。朧の力は強くなりすぎていた。朧自身も苦しんでいたし、周りの者たちも影響を受けていた」
「うん」
「だから私は、隠り世を作った」
瀬尾は暁の髪をそっと撫でる。
「朧が安心していられる場所を作れば、それでいいと思った」
少しの間。
「……いや」
瀬尾は小さく首を振った。
「そう思おうとしていたんだろうね」
「……?」
「私は、怖かったんだ」
「みちなりが?」
「ああ」
暁が不思議そうに見つめる。
「朧に『どうしたい』と聞くのが」
言葉にしてしまえば。
もし朧が。
――ここにいたい。
そう答えてしまったら。
「私はきっと、朧を行かせることができなくなると思った」
だから聞かなかった。
朧のためだと言い聞かせて。
必要なことなのだと決めて。
「私は、朧の行く場所を決めた」
瀬尾の声が静かに落ちる。
「自分の気持ちも伝えずに」
「……」
「朧の気持ちも、ちゃんと聞かずに」
暁は何も言わなかった。
「あの時、朧を隠り世へ送るしかなかったことは、今でも変わらないと思っている……けれど、だからといって、私が朧の気持ちまで決めていいわけじゃなかった」
隠り世へ送ったことそのものを後悔しているわけではない。
「でも」




